列王記下二・一~二
エフェソ三・一六~一七
キリストは私の内に生きておられる(ガラテヤ二・二〇)とパウロは語り、あなた方の心の内にキリストを住まわせられるように(エフェソ三・一七)と跪いて祈る。跪いてとは、人間の弱さや罪を覚え、罪からの救いを願って、祈る姿です。
祈る内容、今日は二つご紹介します。一つ目は、どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなた方の内なる人を強めて(エフェソ三・一六)くださるように、です。内なる人を強めて下さい……。それは教会が、この世の力、キリストを神の御子と信じないこの世の力に取り囲まれているから。迫害を受けて信仰を捨てることを強いられる。その時、教会も教会員も弱いです。信仰者の外なる人が衰えていく。
またパウロが祈ってくれるのは、迫害が無くても、私たち自身の外なる人が弱いからです。私たちは罪人です。パウロも信仰者を含めた人間をこう表現しています。そういうことを行っているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。私は自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善を為そうという意思はありますが、それを実行できないからです。私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている(ローマ七・一七)と正直に語っています。その私たちの弱さを受け止め、それで、どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなた方の内なる人を強めてくださるように、とパウロは跪いて祈っています。
祈りの内容の二つ目は最初に引用した、あなた方の心の内にキリストを住まわせられるようにということです。自分の内にキリストが住んでおられる。皆さん、アーメンですか? このことは、説明できる理屈というよりも、霊によって、その霊により(エフェソ三・五、一六)とありますように、聖霊の御業による出来事です。この出来事は、自分の強い努力で勝ち取ることではなく、聖霊により与えられる恵みです。先日、祈祷会で今日の聖書個所の黙想を分かち合ったのですが、ある方がこう言われました。「あなたの内にキリストが住んでいますよ」とちょっと声をかけてくれればいいのにね。そうすれば確かめられますから。
どう考えましょうか。この恵みそのものはまず神様のご計画があってキリストによって実現されます(エフェソ三・一一)。それが教会によって知らされるようになります(エフェソ三・一〇)。教会によって、というのは礼拝とそこで告げ知らされる福音を通して、ということです。「あなたの内にキリストが住んでいますよ」とちょっと声をかけてくれればいいのにね、実はその声は、聖霊が教会の礼拝と福音を通して語っていて下さる訳です。キリストが住んでいて下さる恵みの出来事は聖霊によって出来事となっている。それを礼拝の福音を聞いて、信仰を通して受けとめれば良い。
今日は旧約聖書からエリヤ―エリシャの物語を選びました。ここで聞き取るのは 「主は生きておられる」。エリヤはこう語って登場します。「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私が告げるまで、数年の間、霧も降りず、雨も降らないであろう」(列王記上一七・一)。主なる神が生きて働いておられることを、何度も証しました。またエリヤと出会った人たちは異口同音に「あなたの神、主は生きておられます」と語ります。
そしてエリシャ。列王記下二章で、エリヤに向かって三回言います。「主は生きておられ、あなたご自身も生きておられます。私はあなたを離れません」。エリヤはこの後、嵐の中を天に昇って行ったのですが、そのようにキリストの甦りの証し人となりました。エリシャは預言者エリヤから、預言者としての務めを引き継ぐことになりますが、引き継いだ内容、その核心部分は「主は生きておられる」という神の恵みの出来事です。
パウロも教会の信仰者たちに、同じことを受け継いでいくようにと祈りました。霊により内なる人が強められるように、信仰を通してあなた方の心の内にキリストが住まわせられるように。
私たちが教会の礼拝に招かれ御言葉を聴き味わうのは、主は生きて働いておられ、ここにキリストが居ましたもうことを受けとめるためです。聖餐の恵みに与ります。この聖餐という恵みの手段により、パンを食し、杯から飲み、パンもワインも恵みのしるしとして手に取り、信仰を通して、自分の内に住まい給うキリストの経験を深めます。