マルコ一・九~一一
皆様、週間夕礼拝にご出席下さいまして有り難うございます。
今日は、主イエスの洗礼の場面の記事です。洗礼は、イエスを自分の救い主として信じます、と信仰を言い表して、教会に加入する儀式です。当教会の洗礼式は頭に水をかけます。
今日の記事では、イエスはヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた(マルコ一・九)とあって、川での洗礼です。川に体を沈め、そこで死んでしまう。象徴的に。洗礼は、それまでの古い自分が死んで、川から上がると新しい自分に甦らされるということを象徴する営みです。
古いとか新しいというのは、私たち人間の場合、神を信じない古い自分が死んで、主イエスを自分の救い主として信じ罪を赦された新しい自分への甦りを意味します。それで洗礼を受けたら、父なる神様から 「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」(マルコ一・一一)と言って戴いて、聞こえませんが、この御言葉を自覚します。それは、何らかの修行を積んで自分が道徳的に立派になった、何か悟りを開いた、それで愛する子になれたというのではなく、神様が一方にそう宣言して下さる、それを受けとめるのです。
さてマルコ福音書の記事は、私たちの洗礼ではなくて、主イエスの洗礼です。神様を信じていない訳ではなく、それどころか、神の御子、神様ご自身であられる主イエスが、裁きを受ける罪もなく、赦してもらう罪もないのに、洗礼をお受けになる必要なんてないと思えます。そういう主イエスが洗礼を受けられるとどうなるかというと、神の御子であられるお方が死んで、私たちと同じ罪人に甦らされるという、反対の事が起こるということです。そして罪人の一人に数えられ、私たちと同じように罪が裁かれる者となる、いや、それ以上に、私たちの代わりに私たち全ての罪を負い、呪われて私たちのために裁かれ十字架に付けられる者となる。そしてそのお蔭で、私たちは、十字架に付けられることなく、神様の祝福を受ける者とされます。
このように私たちのために救い主になって下さるイエス様を、父なる神様は「私の愛する子、私の心に適う者」と言って下さった訳です。
終わりに聖書が語りかけていること受けとめたいと思います。旧約聖書は、人間は人間を救えない。人は自分を救うことは出来ないし、他の人を救う事も出来ない。神様に救ってもらうしかない。その救い主が来て欲しい。来て下さるという待望を語ります。新約聖書は、救い主が来られてそれが主イエスなのだ、主イエスは救い主であられると読者に想い起こさせ信じて欲しいと願っている書物です。イエスとは一体どなたなのだろうと問いかけて欲しい、もちろん答えも用意しています。マルコ福音書の冒頭から神の子、イエス・キリストの福音の初め、イエス様が神の子、キリスト(=救い主)で、これが福音なのだ、この福音の初めから書きますよと書き出している書物です。
今日の箇所では父なる神様のお言葉として、「私の愛する子、私の心に適う者」と十字架を負う主イエスに語り、主イエスのお蔭で私たちは罪赦されて 「私の愛する子、私の心に適う者」とされています。この週間夕礼拝ではマルコ福音書を味わいながら、イエス様の救い主であられることを辿っていきます。