出エジプト記三四・六~九
エフェソ 三・一四~一五
こういう訳で、私は御父の前に跪いて(ひざまずいて)祈ります(エフェソ三・一四)とパウロは祈りへと思いを向けます。今日の主題は、跪いてというのは、人間の弱さや罪を覚えて、罪からの救いを覚えて、祈っているということです。
こういう訳でというのはどういう訳かと言うと、
二章の終わりで、キリストが十字架にかかり、罪を贖い、敵意という隔ての壁を取り壊し、平和を実現し、敵対する両者を一つの体として神と和解させて下さった。そして私たちは聖なる民に属する神の家族となっている。だからこういう訳で、私は神の家族である皆さんのことを覚えて祈ります。それで三章一節で「こういう訳で」と語り、パウロにしてみれば、祈り始めようと思ったのですが、こういう訳で、あなた方異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっている私パウロは……と自分の置かれている信仰的状況の紹介になりました。その終わりの所で、獄中に捕らわれている私が受けている苦難を見て落胆しない下さい、と自己の状況を語り終えて、こういう訳で、私は御父の前に跪いて祈ります、とパウロは改めて祈りへと思いを向けます。
キリストを宣べ伝えた故に捕らわれて獄中のある苦難、パウロだって、教会の人たちだって「えっ、神様どうして?」と思いたくなる所です。でもパウロ自身は、苦難をキリストの囚人とされている幸いに受け止め直しています。
私たちも色々あります。先週の繰り返しになりますが、外には世の罪の現実があります。他にも誰かの罪があります。更に罪の現実は信仰者の自分にもあります。でもそのような自分は、主の憐れみを戴いて、罪赦され恵みに生きる自分とされる。自分も含めて誰の罪であれ、振り回されずこだわらず落胆せずに、罪さえも用い、全てを包む神のご計画の成就を信じる。聖霊の執り成しによってこの新しさに生きるのが、教会の私たちです。
今日はこの後教会総会を開きます。一年を振り返り、私たち教会の弱さ、欠け、罪深さを悔い改めつつ、御前に報告します。そして神様の当教会へのご計画を信じて、また歩みを進めていきます。
そこでパウロは跪いて祈る。ユダヤの伝統では、祈る時には「あなたに向かって両手を広げ」(詩編一四三・六)とあるように両手を高く上げて祈ることが多かったと言われます。でも跪いて祈ることもありました。どういう時か?
モーセは、イスラエルの民が十戒に背いて金の子牛を造り、真の神を信じない姿を露呈させてしまって、そして主が民のその罪を問い罰せられると思った時、跪いて祈る訳です。人間の罪を前に祈る時、跪く。
主は彼の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者」。モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏して、言った。「主よ、もし御好意を示してくださいますならば、主よ、私たちの中にあって進んで下さい。確かにかたくなな民ですが、私たちの罪と過ちを赦し、私たちをあなたの嗣業として受け入れて下さい」(ジプト記三四・六~)。モーセは跪く。ここでは更にひれ伏して祈る。執り成しの祈りです。罪深い弱い彼らの罪を赦し、彼らを聖なる民として回復させてやってください。あなたがその彼らの神でい続けて下さい、と祈る。
跪いて祈るのは、主イエスも同じです。あのゲツセマネ、オリーブ山での祈りの時です。
イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、跪いてこう祈られた。「父よ、御心なら、この杯をそして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。「父よ、御心なら、この杯を私から取りのけて下さい。しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください」。〔すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた〕(ルカ二二・三九~)。他の福音書では、ひれ伏し(マルコ一四・三五)たり、うつ伏せに(マタイ二六・三九)なられたりもしています。
罪人なる人間の姿を心に留め、十字架で贖う決意を胸に祈られました。その時、跪かれたのでした。そしてこの後、何も悪いことは為さって今井のに、捕えられ、十字架に向かわれたのでした。
エフェソ書に戻りますが、パウロも人間の罪、とりわけ、教会の人たちがこの世の罪の現実の故に獄に捕らわれたパウロの苦難を見て、落胆し信仰を失いそうになるその信仰者たちの弱さを思いながら、落胆しないようにと願い、御父に祈る姿勢になります。
しかしそれは、どうせ人間なんて罪深いのだ、信仰者も弱いのだ、と諦めたり裁いたりするのではなくて、続けてこう語ります。自分が跪いて祈る御父から、天と地にある全ての家族がその名を与えられています(エフェソ三・一五)。
私たちは名を与えられ、父なる神様はその名前を永遠にお忘れになることはありません。私たちが地上にあっても天上にあっても、主は宣言しておられます。「あなた方の名が天に書き記されていることを喜びなさい」(ルカ一〇・二〇)。