日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2024年1月21日 説教:森田恭一郎牧師

「キリストのかたち、我らの内に」

詩編一三九・一三~一八
ガラテヤ四・一九~二〇

ガラテヤ書を読み進めています。今日は「キリストがあなた方の内に形造られるまで」(ガラテヤ四・一九)の聖句を味わいます。口語訳聖書は「あなた方の内にキリストの形が出来るまで」と訳出していました。今日は口語訳聖書の「キリストの形」という表現を心に留めたいと思います。

パウロがキリストの形という言葉で言いたかったことは、救われるために何が必要か。キリストを信じるだけでなく律法を守って救いを勝ち取ることも必要だと考えるのではなく、キリストの御業の恵みによってのみ救われる。これを信じる所にキリストの形が造られるのだ、ということです。

今日は、キリストの形が私たちの内に形造られるということを、考えたいと思います。

 

先ほど聖書朗読に先立ち祈りを献げました。聖霊の導きを求める祈りです。聖霊を与えて下さい、だけで良いのですが、随分長く祈りました。お気付きのように、主の祈りに添う祈りです。主の祈りは主イエスが教えて下さった祈りです。主の祈りはそこにキリストの形が現れている祈りです。その祈りに添うようにして、主の祈りに導かれ包まれて祈る。主の祈りどこかで繋がる中で祈る。そのようにして、私たちの祈りをキリストの形が形造られている祈りにしたい、それを先ほどの祈りにおいて祈っている訳です。

主イエスが「ファリサイ派の人と徴税人」の譬えを語られました(ルカ一八・九~)。ファリサイ派の人はこう祈りました。「神様、私は他の人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者ではなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」。ファリサイ派の人は立派なものです。でもその心は、自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下していました。一方、徴税人は「神様、罪人の私を憐れんで下さい」。罪人でしかない徴税人です。この二人の祈り、どちらが主の祈りに繋がって、導かれ、包まれているでしょうか。言うまでもなく、徴税人の祈りの方です。「我らの罪を赦したまえ」の主の祈りそのものです。キリストの形が徴税人の祈りに現れている。ファリサイ派の人の祈りは、主の祈りとの繋がりはなく、その心にはキリストの形はなく、この人の人の形が露骨に現れています。

私たちは何を祈っても良い。時には神様に向かって「どうしてですか」と問いかけ、訴え、叫び、嘆き、文句を言っても良い。格好良い祈りでなくても良い。けれども、そう祈りつつ、どこかで主の祈りに繋がり、あるいは主の祈りに立ち戻る祈りであるならば、そこにキリストの形が現れる祈となっている、と言えるでしょう。

主の祈りは、ただスラスラっと祈っているだけのようでありながら、噛みしめるようにして祈っていくと、ただ呪文のように唱えているのではなく、キリストの形が形造られる祈りになっていきます。ひいては、日々祈る自分の主の祈りに導かれて、生きる姿勢にもキリストの形が滲み出てくるようになるのではないでしょうか。主の祈りが一部分でも良い、そのように、その時々の自分と結びついて、皆さんの内にキリストの形が造られていく。それを願いながら礼拝で先ほどのように少々長く感じられるでしょうが祈っていきたい。

 

さて、この数年来、長老会は教会の「新たなかたち」を整えようと試みてきました。教会の理念は「栄光、神に在れ」。長老の定員を12名から6名に減らしてどんな教会の形を造ろうとしているのか、長老会の方針の下に皆さんが「共に御業に仕え、支え合う教会」。本日、まとめ役の皆さんに資料をお配りして予算申請して戴きますのも、教会にはどのような活動があり、年度ごとにどのような活動が必要なのか、不必要になるのか。活動ためにかかる予算はどの位なのか。それを長老会や会計長老だけに任せるのではなく、みんなで考え参加してみよう。もっとも、御名を崇める礼拝と教会を覚えて礼拝をささげることが、教会における奉仕の中で一番大切な奉仕であることは言うまでもありません。それも含め、教会のかたちが、今日の表現で言えば、教会の活動とそれを担う皆さんの奉仕のお姿を通して、キリストの形となって現れる。このことを願っている次第です。

また、河内長野教会は来年夏、教会創立一二〇周年を迎えます。それで例えば、創立一二〇周年記念誌を発行しよう、また記念講演会なども開催しようなどと考えている訳です。長老会の方針の下、みんなで意見を出し合って進んで行こうと長老会は考え、皆さんに協力を呼びかけています。その際、改めて意識しているのは、地域の方たちも念頭に置きながら「行ってみたい、また来てみたい河内長野教会」、一二〇周年に向けて「地域の信頼に応えて」ということです。

 

なぜ一二〇周年を記念するのか。それはこれからの時代に相応しく教会にキリストの形を形成したいからです。求道者の方が教会の礼拝に来て、人の形が強調され人間の思いが渦巻いている礼拝だなと感じたら、また来たいとは思わないでしょう。また教会が地域の皆さんのことを忘れて、ひたすら内向きになっていったら、地域からの期待も信頼も得られないでしょう。

長老会は当初、百周年記念誌を発行してからの二十年間の営みとその意義を記録に残せば良いのではないか。そのためにこの間のことを知っておられる方たちにお元気な内に纏めて戴こう、一三〇周年では間に合わなくなるかも知れない。だから一二〇周年記念だと思っていました。それはそうなのですが、神様から「それだけではないだろう、もっと考えなさい」と示されました。それは、昨年七月の落雷です。エアコンやパソコンやエレベーターが壊れました。特にエレベーターは半導体の部品調達のため一年位かかるかもと言われ、長老会は慌てました。日頃エレベーターをご利用なさる方たちが一年間も礼拝堂に上がって来られないことになるからです。それでエレベーターの修理ではなく、新しく作るようにしたらどうかと検討した訳ですが、その課程で、会堂の建物の工事の完了検査終了の認証書類がないことが分かり、エレベーターの新たな設置は法的に出来ない事が分かりました。幸い、修理のための部品が殊の外、早く調達できて、半年経った今月になって、エレベーターが回復しました。

しかしこれは単なるエレベーターだけの話ではありません。この会堂は簡単な修理は出来ますが、大規模な改築が出来ない事、いずれ、新築しかない時が来ることが分かった。一二〇周年を過去二十年間のことを知っている年配の方たちに文章を纏めて戴けばそれで済む話ではない。これからの時代に向けて教会をどう形造っていくのか、伝道力のある会堂とは? またこれからの世代の人たちに教会を新しく残していくために、どうするか? これはみんなで考え、祈りを合わせていかなければならない。一二〇周年を機に今から考え備えていく必要性を神様から示された訳です。

早速、子育て中の若い世代の方たちから声が上がりました。内向きではなく、この地域の人たちから何を期待されているのか、どう応えていくのか、その視点をもった一二〇周年記念でありたい。記念誌だって(方法論ですが)紙媒体の本を作るだけでなく、電子書籍、デジタルブックも併せて作り、地域の人たちに、この教会はこういう教会だ、と発信して意見を聞けるようにしよう。そのような意見が出されてきました。こういうことは、当初、長老会は考えもしないことでした。

 

時代の変化に合わせながらも、変わることのないキリストの形を教会に形造っていく。変わることのないキリストの形と言いましたが、しかし思えば、キリストは生きておられ、動かない偶像ではありません。詩編にあなたは私の内臓を造り、母の胎内に私を組み立てて下さった(詩編一三九・一三)。そのように教会の内にいつも新しくキリストの形を作り出していて下さる。

先日、ある保育園と幼稚園の五〇年誌を読む機会が与えられました。その中にこういう記事がありました。「ある日の合同礼拝での出来事、年長組の男の子がいつになく真剣な表情で保育士の所に来て言った。『先生、お祈りしたい』。それは、姑との関係に悩んでいた母親が家を出て行った家庭の子だった。『神様、僕がおりこうにしているから、お母さんが早く帰ってきてくれますように。神様、お願いします』」。その時のノンクリスチャンの保育士が感想を記しています。「この子にとっては、祈るということがとても大切な事だったし、力だった。キリスト教保育をやる園で本当に良かったなと実感しました。子どもが『神様、助けて下さい』と言える場所があったということは、子どもの人生にとって何にも増して大事なことだと感じました」。これを読みながら思いました。この園児にも、この保育士にも、その心の中にキリストの形が形造られている。キリストが先んじて導いて下さっている、と。

パウロは、あなた方を産もうと苦しんでいる、と言いました。苦しくても産み出す希望と喜びがある。一二〇周年記念向け、キリストがキリストの形を自覚していくようにと河内長野教会に産みの苦しみ、否、喜びを賜っておられると信じます。

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