日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2024年1月14日 説教:森田恭一郎牧師

「聖書の証し、あってこそ」

Ⅱテモテ三・一四~一七

今日のテーマは「聖書」です。河内長野教会では、目の前に、ドンと大きな聖書を置いています。聖書は大切だよ、と言っている訳です。もちろん、大きさは小さくても大きくても同じです(小さめの聖書も掲げながら)。聖書の中身が大切です。

この中身に書いてあることをひと言で言うと、イエス・キリストを証しています。ある時、イエス様がユダヤ人たちにお話になりました。あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書は私について証しをするものだ(ヨハネ五・三九)。証というのは紹介するということです。でもただ紹介しているのではなくて、福音の真理を示しています。イエス様は、あなたの救い主=キリストで、十字架のキリスト、イエス様はあなたのために、あなたの罪や弱さを代わりに負って下さった。だからイエス・キリストはあなたにとって福音ですよ、ということを聖書は一所懸命語っています。ですから聖書を読む時には、教養や趣味の書物のように自分の関心から読むよりは、イエス・キリストのこの福音を聞き取ることが出来ますようにと、聖書は祈って読む、祈って聞く姿勢が大事です。

 

この一冊の聖書、もし世界中からなくなってしまったらどうなるでしょうか。イエス様を知っている人が誰もいなくなってしまいます。でも聖書があるから、これを読み、礼拝で聞くことが出来ます。イエス様が幼子としてベツレヘムにお生まれになったあのクリスマスの出来事。イエス様がエルサレムで私たちの罪を贖うため、背負うために、十字架にかかられた出来事。そして死んで甦られた出来事。イエス様を証する聖書があるから、私たちは聖書から聞いて、クリスマスのことも、十字架のことも、お甦りのことも知っています。

 

さて、今日の聖書からみ言葉を聞きましょう。だがあなた方は、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなた方は、それを誰から学んだかを知っており、また自分が幼い日から聖書に親しんできたことも知っているからです(Ⅱテモテ三・一四~一五)。私たちの手元に聖書があるから、皆さんは、聖書から学んで「本当にそうだ」と確信することが出来るし、幼い日から聖書に親しむことが出来ます。教会に来たことのない他のお友だちは、聖書のお話を知りません。教会の皆さんは聖書に親しんでいます。もっともっと親しみたいですね。

テモテ書は続けて語ります。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることが出来ます(Ⅱテモテ三・一五)。聖書のお話を聞いて、信じることが大切だな、救いに導く知恵を戴くのだな、と分かります。皆さんは公立の小学校に通って、色んなことを学びます。でもどれほど授業で知識や知恵を勉強しても、聖書のお話しはありません。教会でこそ学ぶのが、救いに導く知恵です。イエス・キリストを信じることの大切さと素晴らしさです。

 

それでは聖書の有名なお言葉をもう一つ味わいましょう。皆さんならよく知っている聖句です。神は、その独り子をお与えになった程に、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである(ヨハネ三・一六)。

聖書があるからこの福音を聞くことが出来ます。神様がお与えになった。それは神様のプレゼントです。プレゼントの中身は独り子イエス様です。どうしてプレゼントして下さったかというと、世を愛されたからです。 愛。お父さんやお母さんにギュッとしてもらうことも愛のかたちです。転んで泣いていてもお母さんにギュッと抱っこしてもらうと安心して涙も止まります。愛に包まれるからです。

そして、イエス様にギュッとしてもらうことを永遠の命と言います。これは、お母さんに抱っこしてもらうように目で見て体で体験することが出来ないのですが、大人の人も含めて、教会の礼拝で信じて経験しているのは、イエス様にギュッとしてもらっているという永遠の命、その福音です。ですから、聖書が証するイエス・キリスト、そのイエス様にギュッとされる永遠の命を、これからも信じて大切にしていきましょう。

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