日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2024年4月14日 説教:森田恭一郎牧師

「主イエスの洗礼」

マタイ三・一三~一七

私たちは洗礼を受けます。私たちが罪人だからです。洗礼は頭に水を注ぐ儀式ですが、川で受けることを思い起こさせます。水の中に入ってそれまでの自分が死んでしまいます。そして水から上がるのは甦りのしるしです。それは、罪人の古い自分が死んで、新しい自分に甦らされ罪赦され恵みの内に新しい命に生きるしるしです。

洗礼を受けても誰も死んだりしない、と思うかも知れません。それはただ川で溺れて自分が死んでしまうということではありません。イエス・キリストの死に与ることです。

洗礼を受けても誰も甦っていない、と思うかもしれません。それはただ川から上がってくることではありません。イエス・キリストの甦りに与ることです。罪赦され恵みの内に新しい命に生きる者とされます。そうやって私たちは、甦られたイエス・キリストのものとなります。

 

今日の聖書には、洗礼を授ける洗礼者ヨハネが登場します。洗礼を受ける人々が大勢やって来たようです。今日の聖句カードを見て下さい。洗礼を受ける行列が出来ています。その中にイエス様もおられたので、ヨハネは驚き戸惑ってしまいました。そしてイエス様に洗礼を受けることを思いとどまらせようとして言いました。「私こそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、私の所に来られたのですか」(マタイ三・一四)。だってそうですようね。何も悪いことをした訳でもないイエス様が、洗礼を受ける必要なんてないではありませんか……。イエス様は、そうだなぁ、神の子である私が罪人の受ける洗礼なんか受ける必要はないな、とは言いませんでした。罪人と共にいようとされました。そしてイエス様が応えて仰ったのは、「今は、止めないで欲しい。正しいことを全て行うのは、我々に相応しいことです」。それでヨハネはイエス様に洗礼を授けました。

 

イエス様が洗礼を受けられて一体何が起こったのでしょうか。私たち罪人が受ける洗礼とは反対の事が起こりました。洗礼を受けられて、イエス様もそれまでの罪のないご自分が死んでしまわれたのです。そしてどういう者に新しくなったかというと、罪人たちと共にある者となられました。罪人のひとりに数えられた(イザヤ五三・一二)お方になられました。極端に言えば、罪のない正しい神の御子が、罪人の人間になられた。だから十字架にかかり裁かれる者となりました。十字架に至るまで、徹底的に罪人のひとりに数えられる方となられた。皆さんは、イエス様が十字架に付けられた時、右にも左にも強盗の犯罪人が十字架に付けられていたことを知っています。

でも、強盗の犯罪人の十字架と、イエス様の十字架はただ一点、違います。強盗たちは、悪いことをして自分が裁かれて死んだだけです。イエス様の十字架の死は、全ての人の罪を負う十字架の死でした。他の全ての人たちの代わりに裁きを負う十字架の死です。そのお蔭で、私たちは神様からの罪の裁きを負うことはなくなりました。それだから「我々に相応しいことです」と言われた理由が分かります。罪のないイエス様が洗礼を受けられるのは、救い主のイエス様にとって正しいし、罪赦される私たちにとっても正しいことです。

 

それで、イエス様が洗礼を受けられて水の中から上がられた時に、ある出来事が起こりました。天がイエスに向かって開いた。イエスは霊が鳩のようにご自分の上に降って来るのをご覧になった。

イエス様には見えない霊が見えるのですね。それでいいぞ、という聖霊のお墨付きがあった訳です。そして次に、ヨハネや人々に対して、その時「これは私の愛する子、私の心に適う者」と言う声が天から聞こえた。心に適うというのは父なる神様の思う通りであるということです。イエス様は救い主として十字架におかかりのなることが、神様の心に適う思う通りだったのです。

 

この聖書個所を読む私たちにも、このイエス様が神の子なのですよ、十字架におかかりになった時には、あなた方全ての自分の罪をイエス様が代わりに負って下さったのだ、と受けとめるように、と声を聞かせて下さった訳です。

私たちは洗礼を受けます。イエス様が十字架にまでかかって私たちの罪を負い、私たちを新しい人間へとお招き下さっておられるのですから、神様に裁かれる古い罪人から、罪赦されて新しい命に生きる者とされる洗礼を受けます。

子どもたちでも大人でも、洗礼を受けていない方たちは、イエス様の御名によるイエス様の甦りの命に与る洗礼を受けるように、この行列に加わることができるのが、教会のこの礼拝です。

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