日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2018年2月11日 説教:森田恭一郎牧師

「私が来たのは・・・」

ミカ書4章1~3節
マタイによる福音書10章34~37節
ここ数回、主イエスのこの世に来て下さった意味・目的について御言葉を味わって参りました。
「私を信じる者が、誰も暗闇の中に留まることの無いように、私は 光として世に来た」。
「私が来たのは正しい人を招くためではなく罪人を招く為である」。
「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。廃止するためではなく完成するためである」。
「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」。
「私が来たのは羊が命を受ける為、しかも豊かに受ける為である。私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」。
「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人の 身代金として自分の命を献げるために来たのである」。

今日は「私が来たのは地上に平和をもたらすためだと思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。私は敵対させるために来たからである」という御言葉です。これまでの箇所は読むだけで「そうだな」と同意出来たと思います。さすが救い主でいらっしゃると…。が、今日の御言葉は、同意どころか「えっ」と違和感を持ってしまうような箇所です。
旧約聖書以来、神様はむしろ、平和をもたらすべく世界を統治しておられたのではなかったか。ミカ書も「主は多くの民の争いを裁き、遥か遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」と言っているではないか。そしてこの言葉は残念ながら今日に至るまで尚、世界中の人が心に留めるべき言葉であることは間違いありません。であるならば何故、主イエスは「剣をもたらすために」と仰るのか。

主イエスは、なるほど、救い主としておいでになり、その御業を為したもう。その限りにおいて前回までの御言葉はそのまま頷くことが出来ます。でもそこに留まらない。救いに与った者の生き方、と言いましょうか、救いに与った者の形成する共同体や社会の在り方を指し示しておられる。主イエスは公生涯の第一声においてこう宣言なさいました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。あるいは主の祈りを「御国を来たらせ給え=御国が来ますように」とお教え下さいました。神の国といい、御国といい、それは一個人の魂の救済の範囲よりも広い概念です。

この視点から前回の箇所を読み返しますと…、前回は「人の子は仕えられるためではなく仕えるために」のみ言葉に思いを向けながら、日本語の「仕える」が上下関係の人間観、その道徳律を前提にしているのに対し、聖書の「仕える」は神の御子であられる主イエスが敢えて低く降って、十字架の死に至るまで従順であられて(救いの御業としては低く降って来られましたが上下関係の下ということではなく)、私たち罪人の一人ひとりと対等になって下さり、私たちの存在を一人の人格としてお認めになった旨、お話し致しました。
日本社会はまだまだ上下関係の人間観・道徳観が社会を律しています。もし、この社会に主イエスの仰る意味で「対等に仕え合う」という考え方がもっと浸透していったら、日本社会はもっと変わるのではないか。どこに一番の価値を置くのか価値観が変わって行くのではないか。

今日の箇所で、主イエスはこうお言葉を続けました。「人をその父に、娘を母に、嫁を姑に。こうして、自分の家族の者が敵となる。私よりも父や母を愛する者は私に相応しくない。私よりも息子や娘を愛する者も私に相応しくない」。ここだけ読みましたら私たちの多くの者が躓くのではないかと思う程です。しかしここで主イエスが語る当時の父と息子、母と娘、嫁と姑といった間柄に現れる家族関係の質は、どのようなものであったか。それは先程来の言葉で言うと、これらも上下関係を表す以外の何ものでもない。父と息子、母と娘、嫁と姑の中では、嫁と姑の関係は最もそのことが日本語として分かりやすいのではないか思いますので、今日は嫁と姑の関係を例に考えます。
日本語で「嫁」です。お嫁さんになる。どうお感じになりますか。若い娘さんは憧れを感じたりするのでしょうか。嫁とは嫁ぐとも読めます。そして戦前の話ですが、嫁は男子を出産しなかったら、正式に戸籍に入れてもらえない。そこでは夫と共に人格共同体の家庭を形成する「妻」と考えられていない。子どものいない結婚は不完全という、キリスト教倫理学から見れば誤った結婚観が支配している。
こういうことがありました。何十年か前の話ですが、ある人が出産をしたら身体障がいをもったお子さんでした。そうしたらお姑さんがこれを知って「こんな子、家(うち)の家系に生まれるはずはない」と言って受け入れなかった。その息子も、嫁も、結局、それには逆らえず、その赤ちゃんは乳児院送りになってしまいました。幸い、とっても素晴らしい里親になるという方が現れて、育ててくれました。あの赤ちゃんは、今、社会の中で活躍しておられます。神様が辛い出来事を善に変えて下さいました。それでここでの問題は、結婚を二人の人格共同体形成の事柄ではなく「家(うち)の家系には」という家の問題として扱っているということです。

こういった、一人の人格を認めようとしない人間観や結婚観、家族観、そしてひいては社会観、国家観など、これらに対して主イエスは「剣をもたらすために来た」とお語りになるのです。そして主イエスが否定する古い価値観やあり方に対して、私たちも夫々の立場から否と言い続けていくことが、続く三八節に記される「自分の十字架を担って」主イエスに従うことの具体例の一つである訳です。これらを変革し、新たな人間観、結婚観、家族観、そして社会関係を形成していく。そのためにも主イエスは来られた訳です。そのように形成された社会関係でこそ、本当の意味で平和が成就していくに違いありません。福音は個人の魂の救済に留まらず、神の国の到来に向けて、開かれたものです。

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