日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2019年6月30日 説教:森田恭一郎牧師

「私があなた方に書いているのは」

詩篇78篇1~8節
ヨハネの手紙一2章12~17節
一二節「子たちよ、私があなた方に書いているのは、イエスの名によって、あなた方の罪が赦されているからである」。一二節だけでなく、一三節に二回、一四節には三回、更には二章一節にも、また七節にも「書いているのは」とあり、繰り返し、著者がこのことを強調していることが分かります。この手紙をあなた方に書いているのは、こうこうだからだよ、受け止めてよと、差出人ヨハネの切実な思いが伝わって来ます。
この手紙が届けられたヨハネの教会は、福音を明らかにする戦いをしていました。神の御子は人となられ受肉し、私たちと同じように肉体を持つ方になられた。十字架にまでかかられてこの私たちを愛し抜かれた。だから、キリストの愛が伝わるように、あなた方も互いに愛し合おうと、福音を語ります。それは、神たるものが肉体を持ち、まして死んでしまうなんてあるはずがないと考える人たちとの戦いです。それ故、子たちよ、父たちよ、若者たちよと、教会のみんなに福音を語り、福音に生きるように訴え続けている訳です。

今日は、午後、教育講演会を開きます。今日の説教準備をしながらこの聖句を読みますと「あなた方に書いているのは」がこう響いて来ました。「私があなた方に教育してきたのは」。この手紙を書くというのは、ヨハネが教会のために、切なる思いをもって、教育活動をしていることなのだと思わずにはおれなくなりました。
思えば、河内長野教会は教育活動から始まった教会です。当時の日曜学校にA・D・ヘール宣教師をお招きしてクリスマス礼拝をささげたことから礎が据えられた教会です。教会があって日曜学校が始まったのではなく、日曜学校があって宣教師をお迎えしてそこに教会が始まったようです。また戦後には、教会学校の生徒たちが清教塾で勉強しながら、キリスト教の教育が必要だという思いから、今日の清教学園が設立されていきました。またそれに先立ち幼稚園の活動もありました。

今回教育講演会の開催に至る経緯をご紹介しますと、教会学校の教師会では毎月、福音主義教会連合の「教会学校教案誌」を用いて学んでいますが、今年一月のことです。届けられた二月号の巻頭言に、清教学園中学校宗教主任の川俣茂教師が「全日制教会学校」と題して一文を投稿しておられました。その締めくくりにこう記しておられます。「その学園は、清教学園設立趣意書の言を借りるならば、『真の基督精神の道場』、橋本牧師の言を借りるならば、『教会内に発生した幻を、献身者が現れて実現に努力し、……ついには全教会の祈りと努力に発展し、教団及び一般社会の理解者たちの援助を得て出来上がった全日制教会学校である』。伝道目的と教育目的の二つを同時に追求する、世にも稀な『全日制教会学校』を意図した学校がここに存在する」。
全日制教会学校、教会学校は日曜日だけではない、月曜日から土曜日も含めた全日制なのだという訳ですね。そして学園の五十周年誌を引用して「まさにこの時、長野教会に聖霊が働いて人々を突き動かした」。改めて当教会には、教育伝道の志が与えられていたと思わずにおられません。

今日は、教育講演のために茨木東教会のキリスト教教育主事の筧伸子氏をお迎えしました。一月の教師会で順々に学びをしながら、筧氏の文章に目が留まりました。幼小科分級教案の「はじめに」という所の文章です。「筆者の仕えている教会は、現住陪餐会員七五名、礼拝出席平均五五名の教会です。そこに牧師と教育主事を含め一五名の教会学校教師が立てられ、この他にも説教担当者が六名います。その理由は、教会が教会学校からの開拓伝道によって始まったという経緯があり、教会学校が伝道の最前線だという熱き思いが教会全体に充満しているからです(以下略)」。
これを読み、教師一同、ハッとして感動を覚えたのです。「教会が教会学校からの開拓伝道によって始まったという経緯があり」、これは河内長野教会も同じだ。そして「教会学校が伝道の最前線だという熱き思い」。そうなのか。一本とられたと思いました。そして熱き思いが、教会学校だけでなく「教会全体に充満している」というではありませんか。これを読み、この感動を教会学校だけに留めておくのはもったいない。教会全体で熱き思いを共有したい。それで本日の予定を組むことになりました。
A・D・ヘール宣教師、わらじ履きの宣教師と言われて、この大阪から紀伊半島を回り、北上して三重へと伝道が展開していきます。伝道熱心である宣教師のこの熱い思いはどこから来るのか。

ヨハネは語ります。もう一度一二節「子たちよ、私があなた方に書いているのは、イエスの名によって、あなた方の罪が赦されているからである」。イエスの名によって、あなた方の罪が赦されていではないか! ヨハネ自身がこの主イエスの御業を感動している。それを伝えている。
父たちよ、私があなた方に書いているのは、あなた方が、初めから存在なさる方を知っているからである(一三節)。一章の初めにありましたように、初めからずうっとあったもの、イエス・キリストを宣べている訳です。初めから存在なさる方をあなた方は知っているではないか。
若者たちよ、私があなた方に書いているのは、あなた方が悪い者に打ち勝ったからである。この悪い者とは道徳的に悪いというよりは、むしろ、ナザレのイエスの神の御子であることを否定する人たちの事です。その悪い者に打ち勝って、あなた方は真の福音を知っているではないか。
あなた方が御父を知っているからである(一四節)。御父とは御子を遣わした方ではないか。あなた方が、初めから存在なさる方を知っているからである。イエス・キリストを知っているではないか。あなた方が強く、神の言葉があなた方の内にいつもあり、あなた方が悪い者に打ち勝ったからである。神の言葉があって悪い者に打ち勝って真の福音を生きているではないか。そのことを分かち合い共有したくて、今、こうやって筆を執って教育活動をしているのだ。そういうヨハネの感動が、これらの文章に込められているようです。

旧約聖書、詩編七八編。詩編記者も、イスラエルの民の中で教育活動をしている。私は口を開いて箴言を、いにしえからの言い伝えを告げよう。私たちが聞いて悟ったこと、先祖が私たちに語り伝えたことを。キリスト教会の私たちにとっては先祖が語り伝えてきたことはイエス・キリストの事です。これを、私たちも受け止め、更に、子孫に隠さず、後の世代に語り継ごう。主への賛美、主の御力を、主が成し遂げられた驚くべき御業を。私たちにとってこれは言うまでもなく、十字架の贖罪のであり、罪の裁きとしての死を担われたにも関わらず甦られ、肉体を持った方であるのに真の神であられることを明らかになさったという事、これを教会は受け取った。主はヤコブの中に定めを与え、イスラエルの中に教えを置き、それを子孫に示すように私たちの先祖に命じられた。子らが生まれ、後の世代が興るとき、彼らもそれを知り、その子らに語り継がなければならない…。
次の世代の者たちが、私たちと同じように主への賛美をささげ、主の御業を語り継いでいく。そのためには今の私たちが、教育活動をしていかなければならない、このことをこの詩篇も語っている。詩編の記者の熱い思いも伝わって来ますね。

Ⅰヨハネに戻りますが一七節、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。この終わりの言葉は繋がるという言葉です。同様に一四節の神の言葉があなた方の内にいつもあり、六節の神の内にいる、一〇節のいつも光の中におりも繋がるという字です。因みに九節の光の中にいるは英語で言えばbe動詞。これに比べるとより積極的・自覚的に、君たちはキリストに繋がっているではないか、と響いて来る。キリストが私たちに繋がっており私たちもキリストに繋がっている(ヨハネ一五・四参照)。だからこそ永遠の命を生き続けることが出来るのだ。私たちも、同じように礼拝でいつも新しく、そうやそうや、ほんまにせやったせやったと繋がっていることを確認している訳です
河内長野教会は元々、この熱き思いが充満していたし、今でもあると思います。去る四月発行の「教会だより」には教会学校の教師の方がこう夢・幻を書いて下さいました。「私の夢・幻は、清教学園幼稚園の園児全員が教会学校の生徒になることです」。ここにも熱い思いが充満していますね。

そこで、私たちの教会の課題は、教会教育が伝道の最前線だという思いを、どう形に表し展開していけばいいのかということです。それを今日は、茨木東教会の「熱き思いが教会全体に充満している」という様子を具体的に伺い、筧氏のご講演に熱く巻き込まれたいと思います。茨木東教会の皆さんの、そしてヨハネを熱く書かかせている伝道の熱き思いを共有したい。河内長野教会に聖霊が働いて私たちを突き動かし、主を知らない次の世代に語り継いで行く。生き続ける教会となります。

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