日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2019年6月9日 説教:森田恭一郎牧師

「神は我らの弁護者」

イザヤ書11章1~5節
ヨハネの手紙一2章1~6節
今日はペンテコステ、イースターから五十日目に起こった聖霊降臨日です。今日は聖霊を信じるとはどういうことなのか、その一端を執り成しという点から、思い深めたいと思います。
聖霊は、風が思いのままに吹くように、自由に働きます。聖霊が降臨した日ということですが、この日初めて聖霊が降臨した訳ではありません。旧約時代から、聖霊の働きはありました。また、イザヤ書は、救い主キリストに聖霊が降ることを預言しています。エッサイの株から一つの芽が萌えいで、その根から一つの若枝が育ち、その上に主の霊が留まる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる(一一・一―三)。そして主イエスは預言の通りに霊を受けました。そもそも、聖霊によって宿り、処女マリアより生まれたのでした。

Ⅰヨハネはキリストのことを、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます(Ⅰヨハネ二・一)、キリストは弁護者になって下さったと語ります。弁護者と言いますと、私たちはヨハネ福音書(一四・一六、二六等)から、聖霊こそ弁護者なのではないかと常識的に思っているかもしれませんが、改めて、主イエスご自身もまた私たちの弁護者、別様に表現しますと、執り成し手であられるのだと知らされます。聖霊が私たちのために呻くようにして執り成して下さるのに先立ち、まず主イエスご自身が執り成しをして下さっておられます。
そしてその執り成しを根拠あるものとするために、主イエスは十字架にかかれました。Ⅰヨハネの言葉で言うなら、この方こそ、私たちの罪、いや、私たちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえですと十字架の事実を語っています。罪を償ういけにえと訳していますが、「償う」というより「贖う」と訳すべきでしょう。日本語での区別は微妙ですが、私ははっきりと区別して用いています。償うは本人が弁償すること、贖うは他者が弁償することです。私たちは主イエスキリストによって、自分の罪を贖って戴いた。主イエスは、贖いのいけにえになって下さいました。
その結果、主イエスの十字架は私たちの罪ばかりでなく、全世界の罪を贖い、その執り成しは確かなものとなりました。パウロも語ります。誰が私たちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、私たちのために執り成して下さるのです(ローマ八・三四)。キリストが執り成して下さる限り、誰も私たちを罪に定めることは出来ない訳です。

福音書の主のお姿を思い起こしてみます。弟子たちや人々に対して主イエスのなさったことは執り成しの業であると言えるでしょう。例えば、ペトロに「私はあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ二二・三二)。ペトロは恐らく気づいていなかったと思います。自分が主イエスに躓くこと、信仰を無くしかけることを。そして主イエスに祈ってもらっていた、執り成してもらっていたことをもです。でも今、執り成されたことを知り、後に、兄弟たちを力づける使徒となっていきます。それは聖霊を受けてからです。
また前回説教で引用しました、主イエスが言われた言葉、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(ヨハネ八・七)。主イエスの見事な弁護の言葉です。現行犯で捕らえられた彼女は自分では言い訳の仕様もありません。石を投げつけられないで済むような立派な人になれる訳でもありません。それなのに「私もあなたを罰しない。行きなさい。もう罪を犯してはならない」。十字架であなたの罪を背負い贖うから罰しない、と主イエスに執り成して戴いた。この執り成しの言葉を戴いて、彼女は罪赦されたことを知りました。そして赦しを経験した者として立ち直っていったに違いありません。

聖霊降臨日のあの日、ペトロはこう語っています。「イエスは、神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いで下さいました」(使徒二・三三)。主イエスは自ら贖いの供え物になられて、執り成し手になった方です。このお方が、今度は私たちに聖霊を注いで下さいます。私たちへの聖霊降臨です。これがあのペンテコステのいわゆる聖霊降臨の始まりです。パウロも語ります。「同様に霊も弱い私たちを助けて下さいます。私たちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せない呻きをもって執り成して下さるからです。人の心を見抜く方は霊の思いが何であるかを知っておられます。霊は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成して下さるからです」(ローマ八・二六―二七)。聖霊が私たちを御心が成るように執成して下さいます。パウロは、人の心を見抜く方は人の思いが何であるかを知っておりますとは言わずに、霊の思いが何であるかを知っていると記します。その人の思いを超えて、その人に本当に必要なことが何であるか、それを聖霊が知っておられ、聖霊の思いを神様がご存知であると記している訳です。

福音書のあの現行犯の女性、あるいは主イエスを裏切ることになるペトロ、もちろんその二人だけではありません。福音書には主イエスに執り成された多くの人たちが登場します。その執り成しの出来事が、聖霊降臨を通して今の私たちにもそのまま起こる。私たちはそう信じます。福音書を読みながら、これは福音書の登場人物にだけ起こった出来事だと読むのではなくて、登場人物と私たち自身の姿を重ね合わせて、主イエスがこの私にも執り成しをして下さっている、そう信じながら福音書を読みます。
もとより私たちは皆、罪人です。弱い者です。自分でどうしようもならない。執り成してもらうしかない。同様に霊も弱い私たちを助けて下さいますとパウロは語りましたが、私たちは弱く愚かな者です。自分でどうしようも出来ないエゴ、罪を抱えています。頭では何とかしなくてはと思いつつも、体がそうならない。そういう自分を抱えています。そうである限り執り成してもらうしかありません。
ある言葉を引用します。「キリストは死んで私たちから離れられたのではありません。甦って神に最も近くにいて私たちのために執り成していて下さるのであります。孤独な闘い―なんて悲壮な気持ちになってはなりません。強力な祈りの援護の下に私たちの命があります」(小島誠志『朝の道しるべ』5月9日分)。キリストは神の右の座に就かれて、神の最も近い所におられて、神の右の座から立ち上がるようにしながら、私たちのために執り成して下さいます。一方聖霊は私たちの一番近い所に、いや私たちの中へと入り込んで下さって、私たちの思いを超えて私たちに必要なことが何であるか、弱い私たちの姿を一番よく知っておられます。そして執り成し援護して下さいます。

みんな弱さを持っています。欠けを持っています。だから人が集まったら噂話には事欠かないのも無理のない話。でも教会は、私たちみんな弱さを抱えていますから、噂話をするのではなくて執り成しをする。キリストが神の近い所で、聖霊が一人ひとりの中で、執り成して下さる。助けて下さる。だから大丈夫、主の言葉、聖書の言葉を語り合い(使徒言行録一六・三二参照)、だから一緒に祈ろう。これが教会の私たちの姿ですね。教会の私たちは、弱さが無くなって強くなる、というのではない。弱いままです。でも、だからこそ教会の私たちは、相手のために執り成し、自分のために執り成してもらう。この執り成し合いを知っている。それが教会の姿であり私たちですね。

そして執り成しは、主イエスの十字架を根拠にし、私たちの罪ばかりでなく、全世界の罪を贖ういけにえを根拠にしていますから、私たちも自分たちだけでなく全世界のために執り成しをしていく。私たちの教会は河内長野、河南地区に執り成しの祈り、そして執り成しの業を展開していく、これも神が望んでおられることであると信じます。河内長野教会の宣教、それは礼拝であり伝道であり、教育であり、保育活動等の奉仕です。教会の中であれ外に向けてであれ、それらは皆、執り成しです。
河内長野教会の歴史は、礼拝から始まって奉仕に至るまで執り成しを現わしていく営みでした。これまでも、そして、これからも。その夢・幻を神様がお持ちです。それを私たちは受けとめていきます。
因みに、聖餐式も聖霊の執り成しの下に意味あるものとして起こることです。聖霊の執り成しが無ければ、単なる形だけの儀式になります。あるいは、ただ思い起こすだけのものになり出来事になりません。聖霊がここに働かれると信じます。その働きの下で、十字架が私たちのためにあるのだと思い深め、キリストがここに臨在したもうことを経験するのです。

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