日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2024年1月28日 説教:森田恭一郎牧師

「神の約束、自分の使命」

創世記一七・一五~二一
ガラテヤ四・二一~三一

今日のガラテヤ書に「約束の子」(ガラテヤ四・二八)という言葉が出てきます。創世記が 女奴隷ハガルから生まれた子と自由な身の女サラから生まれた子のことを記していますが、ここでの約束とは、アブラハムとサラ夫婦に子が与えられるという約束です。神はアブラハムに言われた。「私は彼女を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう」(創世記一七・一六)。 この約束によって授かったのがイサクで、約束の子。その子孫たちがイエス・キリスト約束の子たちとなります。

 

今日は、本質とそれを実現させるための方法論の区別、あるいは変えてはならない受け継ぐべき事柄と変えても構わない事柄の区別を認識したいと思います。

約束と言えば、聖書の旧約新約の約は約束の約、契約の約です。神様はアブラハムに約束なさいました。あなたとあなたの子孫の神となる。私は彼らの神となる(創世記一七・八)。他の箇所では、更に加えて、彼らは私の民となる(エレミヤ三一・三三など)と約束の内容を記しています。 神様が私たちの神様となって下さり、私たちがその民となる、この契約の中身は新旧約共に変わりません。それが本質、変えてはならない事柄です。

そして、旧約のユダヤ教の人たちは、そのための方法論として律法を守ることを身につけました。そして方法論を方法でしかないのに、絶対的に守るべき事、変えてはならない事と勘違いしてしまいました。そういう人たちが律法主義者、ユダヤ主義者として、これを乗り越えることが出来ません。キリスト教徒になっても乗り越えられません。それで新約のキリスト教会の中でも残ってしまって、彼らはガラテヤの異邦人キリスト者を混乱させたようです。それだけでなく迫害(ガラテヤ四・二九)までしたようです。

パウロがガラテヤ教会のそのような状況を大変憂いた訳です。出来ることなら、私は今あなた方の下に居合わせ、語調を変えて話したい。あなた方のことで途方に暮れているからです(ガラテヤ四・二〇)と記しす通りです。そして二一節以下、語調を変えて、相手のユダヤ人たちに合わせて、律法の話題から話を進めます。今日は二一節以下のパウロの創世記理解については省略して、結論として記している言葉を受けとめます。要するに、兄弟たち、私たちは女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです(ガラテヤ四・三一)。

 

ここで兄弟たちと呼びかけていますが、アブラハムの子孫としてのユダヤ人、ユダヤ民族だけでなく、福音を信じて、神様の民とされている異邦人キリスト教徒のこともパウロは含めて言っています。私たちは自由な身の女から生まれた子、約束の子です。神が私たちの神となって下さり、私たちはその民です。それは血筋や民族を越えています。

私たちで言えば、日本人であるということを越えています。先日、長野神社の戎祭りを覗いてきました。丁度、澤田病院の診察の日と重なったので帰りに立ち寄りました。大勢の人たちが居て、出店も賑わっています。私も鯛焼きを買い求めました。神社には行列が出来ていて、商売繁盛のおみくじか何かを販売していました。お祓いもしていたようです。これが日本人の宗教心を捕らえているのかと思いました。キリスト教徒である私たちは、戎さんを越えられているか? もちろん私たちはキリストとその福音を信じ、戎さんはとっくに乗り越えています。

けれども、ここから思うことは、戎さんだけでなく、日本の様々な風習から自由になっているかということです。たとえば、戴きものがあると半分くらいのお返しをする。感謝の気持ちを持つことは尊いことですが、その方法論としてお返しをしなければならないと思っているなら縛られています。戴いてお返しをするのは自由だし、感謝の気持ちを表すことは大切ですが、心から有り難うと伝えればそれはそれで済むことです。お返しをするのは方法論でしかないのに、風習に縛られてお返しをするのだとすれば、風習を乗り越えていません。もらい放しのあげっ放しが爽やかでいいのではないか。事柄とそれを表す方法、変えてはならない事柄と変えても良い方法、その区別が必要です。

以前、信仰者でないある方とお話しする機会がありました。その方は、ある理由で夫を赦せないでいた方です。私がこう言いました。「みんな天国に行ったら赦し合えるようになって、一緒に神様ありがとうと言えるようになるといいですね。天国に行く前から、人生の最後に赦すことが出来たとしたら、お子さん方も感心なさるでしょう」。そうしたらその方が「普通私たちは、良いことをしたら極楽で、悪いことをしたら地獄、と思っています。赦せないとも思っていました。でも新しい世界が見えてきました。考えてみます」と応えて下さいました。

福音は、キリストの贖罪によって罪赦されることです。そして福音に生きる、それは自分を縛っていることから自由に生きることでもあります。この歴史の中に命与えられて、神様からの使命に生きることです。

 

教会は歴史の中にあって、私たちの神となって下さったキリストの神にを礼拝をささげるキリストの体です。それが教会の本質です。時代を超えて変えてはならないこの本質の事柄と、時代に合わせて方法は変えて新しい事にチャレンジしていく柔軟さ。教会創立一二〇周年は過去を振り返り、現在を確かめ、将来を見通して、本質と方法論、変わらざるものと変えて良いもの、それを見極める営みであります。

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