日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2020年3月8日 説教:森田恭一郎牧師

「神の契約、夫婦の契約」

申命記 五・一八
エフェソ五・三〇~三二

本日は十戒の第七戒、姦淫してはならないの御言葉を味わいます。第六戒の殺してはならないが生かせという意味であったのと同じように、姦淫してはならないというのも、積極的に言うと夫婦関係の形成と保証になります。良い夫婦関係を造れということです。そしてそれは契約関係です。契約に誠実であるということです。

 

夫婦関係も親子関係も、同じように家庭を形成する点では同じですが、決定的に異なるのは、血の繋がりが夫婦関係にはないが、親子関係にはそれがあるということです。よく、子どもは親を選べないと言いますが、親も本来は選べないはずのものです。(もっとも現代は技術の進歩により、例えば体外受精をしてどの受精卵を子宮に戻すのか選んだり、出生前診断で中絶するのかどうかを選択するなどということを迫られるようになりました。でもそれは親の権利として本来的に認められているのではないと考えます。親も子も双方、恵みとして与えられているものです)。親子は血縁関係ですから切っても切れない関係がある訳です。その意味で家族は血縁共同体です。

それに対して、夫婦は血の繋がりはありません。親子のように与えられる関係ではありません。結婚式における二人の誓約によって成立する契約共同体です。単に好きだから結婚するのではなく、順境の時も逆境の時も愛していくことを誓約した共同体です。愛の誓約により契約共同体は更に、人格共同体となります。

 

そして結婚の目的は何か? 答えを先に言いますと、この人格共同体を形作ることが結婚の目的になります。これから結婚する若い人たち、前もって、出来れば特定の彼氏彼女、パートナーを意識するようになる前に、結婚講座も受けて、改めて考えて欲しい。

よくある答えは、子を設けて家庭、血縁共同体を形成するというもの。でも、もしそうであるなら、子どもが与えられなかったら、その夫婦の結婚は失敗だったという事になります。明治憲法下ではそうだったのかもしれません。しかも子どもを得ることが最終目標ではありません。家の存続のために結婚する、後継ぎを設けるために結婚する。それがかつての結婚の目的でした。親子関係が代々続くこと、これが第一義的な意義でした。だから子どもが生まれると、夫は妻からお父さんと呼ばれ、妻は夫からお母さんと呼ばれるようになるのが当たり前でした。もちろん子どもに対しては父母でありますが、夫婦はあくまで夫と妻のはずです。

改めて何のために結婚するのか? 両性の合意に基づく、それが今の日本国憲法の規定です。合意とは、独りでいると寂しいからとか好きだからとかの感情的なものではなく、愛するという意志的な契約です。愛に基づく人格共同体の形成を目指す、それが結婚の目的です。

 

契約と言えば、新旧約聖書ではそもそも、契約は真の神が私たちの神となり、私たちは神の民とされるという神の側からの契約を語ります。私はあなたととこしえの契りを結ぶ。あなたは主を知るようになる(ホセア二・二一~)。イニシアチヴは神の側にあります。そして創世記では、大地を呪うことはしないとノア契約を結び、あなたを祝福しあなたは祝福の源になるとアブラハム契約を結ぶ。そして、イスラエルの民がエジプトで奴隷となって叫び声をあげた時、神はその嘆きを聞き、契約を思い起こされ(出エジプト記二・二四)、出エジプトの救いの出来事を起こされました。この救いの出来事は、神とその民であり続ける契約に基づくものでした。

聖書は、真の神がイスラエルの神となり、イスラエルがその民とされる、これを貫く神の愛を語ってやまない。この契約から民が外れ、他の神々を崇拝するようになる偶像崇拝を、聖書は姦淫と表現しました。姦淫とは、本来、夫婦の人格関係の崩壊を表す言葉です。神と民の関係崩壊に姦淫という比喩を用いるのは、聖書の神と民との関係が人格関係であることを表しているからです。

 

姦淫は、配偶者以外の相手と関係を持つことですが、それは相手の人体との関わりであって人格関係ではありません。夫婦は身体的な関係を含む関係ですが、身体的関係の中にも人格関係があります。そして生活全体に及んでいる。夫婦の人格関係を保障しているのが結婚です。

夫婦が契約共同体である、しかも人格関係であるというのは、この神と民の契約関係、しかも人格関係、神の愛の関係を証ししている。そしてエフェソ書でパウロはこう語ります。私たちは、キリストの体の一部なのです。「それ故、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」。

この創世記の言葉を引用して人格共同体としての夫婦の一体性を語りつつ、この神秘は偉大ですと語ります。

夫婦はその人格関係の内に偉大なる神秘を秘めていると言う。夫婦は二人だけのことに留まらない。何故かというと、私は、キリストと教会について述べているのです(エフェソ五・三〇~三二)。パウロによると、夫婦はキリストと教会の関係を現わしている。神に対する民、キリストに対する教会、民も教会も、どちらも欠けの多い不完全なものでしかない。けれども神はその民を愛し、キリストはこの教会を愛することを約束して下さっている。この神の愛の保証を神は夫婦に注いでおられる。

夫婦は、民への神の関係を現わしている。教会へのキリストの関係を現わしている。同時に、キリストの愛が夫婦を支えている。それが結婚式の神の宣言に込められていて、二人の神に対する誓約だけで婚姻が成り立ち支えられるのではない。現憲法の規定する本人同士の両性の合意を超えて、キリストによる祝福が土台にある。キリストが教会を愛するキリストと教会の関係、この偉大な神秘を結婚は内に秘めている。イスラエルの歴史は神に背く姦淫、人類の歴史は配偶者に背く姦淫を示してきました。でも、姦淫するのではなく、人格共同体を育むことに導かれるのは、夫婦が共に、神が愛を貫かれたこの神秘に想いを向けることによって確かなものとなります。

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