日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2019年2月3日 説教:森田恭一郎牧師

「父なる神よ」

エレミヤ書31章20節
ローマの信徒への手紙8章14~16節
「天にまします我らの父よ」、今日は主の祈りの呼びかけの箇所を味わいます。
「天にまします」、顔を天に向けていい……。「我らの」、自分一人ではない……。「父」よ、「神様」と祈るのとは異なる優しさ近さがある……。父「よ」、遠慮なく何度でも呼びかけていい……。

改めて、「天にまします」から味わっていきます。父なる神様は天におられ、御子なるキリストも今は天におられます。そこから聖霊なる神様が遣わされ、地上の私たちを導いて下さいます。だから私たちは祈る時には、顔を天に上げ、心を天に向けて祈りましょう。仮に自分が地獄の底にいると思えるような時でも、天がなくなる訳ではない、八方塞がりだと思える時でも、天井は開いている、自分のいる今のこの場所から天を仰ぐことは出来る訳です。その時には天と地との無限の距離を感じるというより、むしろキリストにあって「天の国は近づいた」こと、キリストがおられる所が天であり、主にあって天を身近に感じて良い訳です。

「我らの」。「私の」ではないことに気付きます。我らと祈る時、自分も含めた、どういう我ら、どういう私たちを思い描いておられますか。主の祈りを教会で祈るなら、教会のここにいる私たちを思い描くのが最も自然に思えるでしょう。神の霊によって導かれて神の子とされている(ローマ八・一四参照)、ここに同席していない信仰者のことを考えることもありましょう。保育園や幼稚園、学校の礼拝で祈るならその時一緒に礼拝を捧げている仲間たちを思い描く。また家族、友人、仕事仲間を考える。今自分が気になっている、例えば病床にあるその人この人を思い描く。その人たちを覚えて我らと祈ることもあります。更に思いを深めたいのは…、同じように今自分が気になっているのですが、関係のこじれているあの人、喧嘩をしているあの人を思い浮かべながら、我らと祈る。被害を受けた人が加害者を思い浮かべながら我らと祈る。戦争中だったら敵も含めて我らと祈る。とんでもないと、時によっては我らに含めるのは難しいかもしれない。
でも自分の祈りにはならなくても、主に導かれて祈る「主の祈り」なら出来るのではないでしょうか。「我らの…」と祈りなさいと言われて、わざわざ「私の」と言い換えて祈らなくてもいいですよね。もし仲直りとか和解とか平和とかを考えるのなら、我らと祈る所から考え始める。相手が謝る前に、自分が赦せるようになる前に、思い切って我らと祈ってみる所から始められるのではないでしょうか。
このように、我らに誰を考えて祈るか、それは自分が今置かれている状況によって変化します。更にはいつも世界中の人たちまで広げて我らと祈ることは今日益々大事なこととなっている。百年前と比べたら世界は一層一つになっている。世界のあちらで起こったことがすぐこちらに影響を及ぼす。また環境問題も世界中でみんなで取り組まないと解決しない。地球儀を前に置いて日本国や日本人の枠を超えて祈る。「我ら」という共同体の水平次元が広がっていきます。
そしてもう一つ、垂直次元の共同体がある。それは神が私たちと共にいて下さる「我ら」です。主の祈りを祈る時に、キリストと私の「我ら」を抜きに祈ることは考えられないことです。

「父よ」。神よ、ではありません。聖霊によって私たちは「アッバ、父よ」と呼ぶのです(ローマ八・一五参照)。よく言われることですが、アッバというのは幼子がパパと呼ぶような幼子言葉、それ程に親しみの近さを表す言い方だそうです。主イエスが神様に向かって「アッバ」と祈っておられた。ゲツセマネでの祈りのときも「アッバ」と祈っておられましたね(マルコ一四・三六)。
マタイ福音書が伝える呼びかけの言葉は「天におられる私たちの父よ」です。ルカ福音書が伝える短い「父よ」の方が主イエスが言われた通りの呼びかけで、マタイ福音書の文章はその後の教会の礼拝の典礼に相応しく整えられていった文章であろうと考えられています。
ルカ福音書の主の祈りの記事を見ますと、弟子が「祈りを教えて下さい」と問うた。主イエスの祈るお姿から、自分たちの日頃の祈りとは異なる何かを感じたのでしょう。それで弟子は問いたくなった。その答えが端的に「父よ」でした。神様をそのようにアッバ、父よと呼びかけることが出来るのは、元はと言えば御子のみです。その御子なる主イエスが、父よと呼びかけてご覧なさいと主の祈りを教えて下さった。
神様を父よと呼べるのは、私たちが神の子たちとされるということです。そのためにはまず、主イエスの弟・妹として認められねばなりません。「イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされない」(ヘブライ二・一一)。主イエスの弟・妹とされるのは、キリストの十字架あってこその事です。主イエスの弟・妹にされるから、主イエスの父なる神の息子・娘とされ、そのお蔭で私たちも神を「父よ」と呼ぶことが出来るようにされている訳です。

神を「父よ」と呼ぶことが出来る。ということは私たちは父から見て、子たちと見なされていることについて、今一度確認しましょう。
父よと祈りながら、あの放蕩息子の譬え話を思い起こすのも有益です(ルカ一五章)。放蕩に身を持ち崩したあの息子を息子として迎え入れるあの父親の譬え話です。そしてこの譬えを語られたのが主イエスであることが大事です。アッバ父よと呼びかける主イエス以外には語ることの出来ない譬え話です。
あの譬え話で弟が「もう息子と呼ばれる資格はありません。雇人の一人にして下さい」と言いかけた、それを遮って父は「この息子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」とあくまでも息子と言って喜び、兄にも「子よ」と呼びかけています。
エレミヤ書でも罪を犯し続けるイスラエルの民、エフライムに対し、こう語りかけます。「エフライムは私のかけがえのない息子、喜びを与えてくれる子ではないか」(三一・二〇)。神様はご自身を父として啓示し、私たちを息子と見ておられます。そこから私たちは全ての人に対して「我ら」と言える。誰に対しても「神の子たち」とされている人として見ることが出来る訳です。
因みに、父なる神と言うが母はどうなったのかとか、息子と言うが何故娘ではないのかとかいう議論は意味がありません。エレミヤ書は続けてこう語ります。「彼を退ける度に、私は更に、彼を深く心に留める。彼の故に、胸は高鳴り、私は彼を憐れまずにはいられないと、主は言われる」。ここには家父長的な権威は感じられません。神の愛を「父と息子」で表現している訳です。また、私たちは母なる神とは言いません。でも女性蔑視だからではありません。敢えて言えば、教会を母と言うことはあります。「母なる教会」、教会でこそ、神の愛に触れ、御言葉によって育まれます。

そしてもう一つ、「父よ」の「よ」。呼びかけの言葉です。私たちはどのような時でも遠慮なく呼びかけていい。何度でも呼びかけていい。そして父よと呼びかける時、私たちは神に向かう。横を向いて神について何か理屈で考えたり語ったりするのではない。神に向かって祈る。「神の御前で」とよく言いますが、それも横を向いたままではなく、神に向かっていてこそ言い得ることです。

主の祈りは短い祈りです。自分の様々な思いが入りきれないと思うかもしれません。今日の説教も、思いを広げて語ってきました。しかしその広がる思いを、「天にまします我らの父よ」、更には「父よ」の一言の短い祈りの言葉に凝縮して祈る訳です。前回の礼拝で読みました聖書に「私の魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ」(詩編六二篇)。自分の魂が沈黙して、神に向かうその中で、主の祈りを祈る。内容を味わわずにただサラサラと唱えてしまうのでもなく、聴く姿勢なしに自分の思いがただ広がってしまうのでもない。ちゃんと沈黙して、ただ神に向かい主の祈りのその一言に集中して「父よ」と声に出して祈る。
ボンヘッファーというナチスに捕らえられて亡くなった人の言葉を見つけました。「沈黙しよう、御言葉に耳を傾ける前に。私たちの思いは既に御言葉に向かい合っているのだから。沈黙しよう、御言葉を聴いた後に。それは私たちの中に生きて住み、尚、語り続けるから。沈黙しよう、暁に目覚めた時、最初に聞こえてくるのが神の言葉であるように。沈黙しよう、夜、眠りにつく時、最後に聞こえてくるのが、神からの言葉であるように」。彼は処刑される直前、祈っていたそうです。それを見た人が、神に委ね切って聞き届けられる確信に溢れていたと証言しています。夜眠りに就く折に、人生が終わるその時に聴くのが神からの言葉であるようにと、そのような望みを以て主の祈りを祈り得るのだと深く思わされました。
主の祈りは、沈黙して神に向かうその場所で主が語り続けて下さる、人の祈りではなく正に「主の祈り」です。ここに私たちは招かれています。

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