日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2023年8月20日 説教:森田恭一郎牧師

「父なる神、母なる教会」

詩編 八九・二七~三〇
ガラテヤ一・一~五

本日から新約聖書よりガラテヤ書を順々に味わいながら礼拝をささげて参ります。ガラテヤ書は「福音とは何か、何を信じるのか」を 教えてくれる書物です。求道者の方は福音の恵みを理解し、また信仰者の皆さんも福音の恵みを改めて確認する機会として戴きたいと願います。今日は、神が愛の父であり、キリストはその愛の故に遣われたこと、教会は母なる教会であることを確認します。

 

さて今日の聖書個所を読みながら繰り返し出てくる言葉にお気付きになられたかと思いますが、それは「父である神」です。読み返してみますと、人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ、並びに、私と一緒にいる兄弟一同から、ガラテヤ地方の諸教会へ。私たちの父である神と主イエス・キリストの恵みと平和が、あなた方にあるように。キリストは、私たちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世から私たちを救い出そうとして、御自身を私たちの罪のために献げて下さったのです。私たちの神であり父である方に世々限りなく栄光がありますように、アーメン。手紙の書き出しの短い挨拶の所に四回記しています。

どの宗教も「神様」と呼びかけ信じる訳ですが、「父なる神様」と呼びかけることはないのではないでしょうか。聖書の「父」が表すのは、人格的な愛です。そして愛だけなら母なる神でも良さそうですが、父であるのは正義を伴う愛の権威を表しています。絶対的な愛、ぐらつくことのない愛です。

 

初代信仰者たちの、神が父であられるということの気付きは、主イエスが神を「父よ」とお呼びになったことにあります。また主の祈りで「父よ」と神を呼ぶことを教えてもらったからです。そして旧約聖書の言葉を、キリストを証する言葉として納得しました。例えば、彼(キリスト)は私(神)に呼びかけるであろう。あなたは私の父、私の神、救いの岩、と(詩編八九・二七)。人間の側の気付きは、主イエスから父なる神へという順番です。主イエスと出会って「神が父であること」を知り、主イエスに出会って愛に包まれました。

しかし事柄としては、神が父であられるからこそ、主イエスがその御子です。この主イエスの弟や妹にされて、罪の子の私たちも神の子たちとされます。もし、神が神であられるだけ、正義の神であるだけであったら、私たち人間は裁かれ滅ぼされるだけに終わるのではないでしょうか。

パウロは、十字架以前のイエスを知っていたかもしれませんが、主イエスとの出会いはありませんでした。主イエスとの出会いはダマスコ途上で起こりました。 突然、「サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか。私は、あなたが迫害しているイエスである」(使徒言行録九・一~)と呼びかけられます。パウロはこの時、自分はもう仕返しされて滅ぼされる、と直感したのではないではないか。でもそうならなかった。そうではなくて主イエスの愛に触れた。「起きて町に入れ。そうすれば、あなたの為すべき事が知らされる」。この出会いから、主イエスの愛に触れ、あの十字架がこの自分の罪を贖うためのもので、だから仕返しも裁かれもしないことに気付く。更に主イエスが神の御子であり、神が主イエスの父なる神であり、父なる神が愛であることに気付いていく訳です。

 

パウロは十字架の出来事をこう語りました。キリストは、この悪の世から私たちを救い出そうとして、御自身を私たちの罪のために献げて下さったのです(ガラテヤ一・四)。 ここに罪を裁く正義が貫かれています。そしてその際に、こう付け加えている。私たちの神であり父である方の御心に従い・・・。この御心に、父なる神としての愛が溢れていることを、パウロは深く深く受けとめています。キリストは御心に従い、命がけで命をかけて十字架にかかり、御自身を献げて下さいました。エレミヤも預言しました。一人の指導者が彼らの間から、治める者が彼らの中から出る。私が彼を近づけるので、彼は私のもとに来る。彼の他、誰が命をかけて、私に近づくであろうか、と主は言われる(エレミヤ三〇・二一)。

もし神が父ではなく愛もなく、正義の神であるだけなら、人は裁かれて滅んでいくだけです。パウロは、神が父であること、そしてもう一つ、神が父であられるからこそ、その愛を以て、神は私たちのために十字架に御子をお遣わしになられたことを語ります。そして私たちは神の子たちとされました。エレミヤも、こうして(命をかけて下さったから)、あなたたちは私の民となり、私はあなたたちの神となる(同二二節)に至ります。

 

さて、今日は説教題を「父なる神、母なる教会」としました。キリスト教は父なる神と言うが、母なる神はいないのかと問われます。キリスト教の神に、父なる神とは別に母なる神がいる訳ではありません。おられるのは、御子なる神と聖霊なる神の三位一体の神です。その上で母を語ったのは、宗教改革者カルヴァンです。彼の文章を引用します。神はこの教会の懐の内に、ご自身の子たちを集めることを欲したもう。それも彼らが乳呑み子であり、子供である間に限って、教会の働きと務めによって養育されるというだけでなく、成長した状態に達してもなお、教会から「母」としての配慮の下に統治され、ついに信仰の究極の目標にまでに達するに至るのである。教会は「母」なのである(キリスト教綱要Ⅳ・1章1節)。

神様がどれ程愛に満ちた父なる神であるとしても、それをどれ程、主イエスが現しておられるとしても、神様との出会い、主イエスとの出会いがなければ、私たちには関係がないまま終わります。パウロはダマスコ途上の主イエスとの出会いがありました。十二使徒たちは復活のキリストとの出会いがありました。それが、彼らが使徒であるということです。

使徒ではない私たちは、どうやってキリストと出会い、神が父であることを知るのでしょうか。それは教会を通してです。聖書の解き明かしを聞き、洗礼を受け、聖餐に与って、出会いが起こる。教会に行くことがなければ、信仰者になることはない。どれ程、書物を通してキリスト教を学んでも、教会に集う、いや、招かれることなしには、十字架と復活のキリストと出会わない。もしこの地上から教会がなくなったら、世界中からキリストに出会う人はいなくなる。数十年後にはキリスト教徒はこの世からいなくなる。この地域にも河内長野教会がある。大切なことです。

「教会以外に救いはない」という表現があります。これは私にとっては真実です。私も教会に招かれました。聖霊の導きです。教会で「キリストの福音の恵み」に触れ、信じ、そして今に至りました。思えば不思議です。「キリストと出会うのは教会を通してだ」 と神様が決めておられるから、としか言いようがありません。教会の礼拝に招かれて、キリストの福音の恵みに与りました。私たちが信仰者であるためにも、教会が教会であるためにも不可欠なこの「キリストの福音の恵み」について次週、お話しします。

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