日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2021年4月25日 説教:森田恭一郎牧師

「最初の確信を今日もまた」

詩編  九五・六~七
ヘブライ 三・七~一九

「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、心を頑なにしてはならない」(ヘブライ三・七、一五)。今日とは、どのような日であるのか。これが今日の主題です。

ヘブライ書は、今日という日は、神の声を聞く日であり、心を柔らかにする日だと繰り返し語ります。何故か。エジプトの紅海の奇跡を経験して奴隷の苦しみから解放されたイスラエルの民が、モーセを通して神の声を聞いたのに、心を頑なにしたからです。

彼らは、紅海の奇跡の出来事の直後は、主を賛美して歌をうたいました。主に向かって私は歌おう。主は大いなる威光を現し、馬と乗り手を海に投げ込まれた(出エジプト記一五・一)。救われて賛美をささげたその場所を出発して三日もすると、水が苦くて飲めなかった。民は「何を飲んだら良いのか」と不平を言ったのでした。モーセが主に向かって叫ぶと水は甘くなって民は救われました。

彼らは荒れ野に入るとまた不平を言い始めました。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって死んだ方がましだった。あの時は肉の沢山入った鍋の前に座り、パンを腹一杯食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている」。それで神様はマナを与えました。

また旅立つと、今度は飲み水がなくて、モーセと争って「我々に飲み水を与えよ」。神様は岩から水を出させて、民は飲むことが出来ました。この時のことを出エジプト記はこう記します。イスラエルの人々が「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言ってモーセと争い、主を試した(出エジプト記一七・七)。

へブライ書は詩編九五編から引用してこう言います。「荒れ野で試練を受けた頃、神に反抗したときのように心を頑なにしてはならない。荒れ野であなたたちの先祖は、私を試み、験し、四十年の間私の業を見た。だから私は、その時代の者たちに対して、憤ってこう言った。『彼らはいつも心が迷っており、私の道を認めなかった』。そのため私は怒って誓った。『彼らを決して私の安息に与らせはしない』と」(ヘブライ三・八~一一)。

彼らは何度も神様から恵みを戴いて、その都度、危機を脱していくのに、新たな危機に直面すると、神様がまた救って下さると思い返すことが出来ず不平を繰り返しました。彼らにとっての今日という日は、困難、試練の日、不平の日でありました。

 

ヘブライ書は、まるで繰り返し民が心を頑なにしたのに合わせるように、繰り返し彼らの不信仰を指摘します。一体誰が、神の声を聞いたのに、反抗したのか。モーセを指導者としてエジプトを出た全ての者ではなかったか。一体誰に対して、神は四十年間憤られたのか。罪を犯して、死骸を荒れ野にさらした者に対してではなかったか。一体誰に対して、御自分の安息に与らせはしないと、誓われたのか。従わなかった者に対してではなかったか。このようにして、彼らが安息に与ることが出来なかったのは、不信仰のせいであったことが私たちに分かるのです(ヘブライ三・一六~一九)。出エジプトの救いを経験したあの世代の人たちは、あの賛美をささげた最初の感謝と喜びを忘れ、結局、約束の地カナンには入れなかった。モーセも入れなかった。入れたのは荒野の四十年を経た次の世代の人たちでした。

けれども、この叱責されるべき民の姿、水がない、食べる物がない、今日風に言えば収入がなくなる。その試練が繰り返し降りかかって来る中で不平を言ってしまうのはむしろ当然です。試練が襲ってくるのは、迫害があったヘブライ書の教会にとっても同じでした。

思えば私たちにも他人事ではありません。私たちも、今日はどのような日か、と問われれば、恐らく、感染症のため緊急事態宣言が出された日、困難の続く日と思うでしょう。私たちも神様に向かって不平の一つも言いたくなります。

けれども、一向に改善に向かわないことを神様のせいにして、心を頑なにしてはいけません。

 

そこでヘブライ書はそのような私たちに心を込めて呼びかけます。兄弟たち、あなた方の内に、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい(ヘブライ三・一二~)。注意する、口語訳聖書では、気をつけなさいとなっていました。注意するにしても気をつけるにしても、一人だけでなかなか出来るものではありません。だから続けて、あなた方の内、誰一人、罪に惑わされて頑なにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。私たちは信仰の群れの仲間です。今日という日は神の声を聞いて、励まし合う日です。これが礼拝と牧会です。神の御前に立つ礼拝の今日、そこで聞く神の言葉を以て励まし合う牧会の今日です。

ヘブライ書がイスラエルの民の心頑な姿を描くのに、出エジプト記からではなく、詩編九五編から引用したことを考えますと、詩編九五編は礼拝への招きの言葉だからです。心を頑なにしてはならないと語るのに先立ってこう記します。私たちを造られた方、主の御前に跪こう。共にひれ伏し、伏し拝もう。主は私たちの神、私たちは主の民、主に養われる群れ、御手の内にある羊。今日こそ、主の声に聞き従わなければならない(詩編九五・六~七)。私たちは礼拝に招かれ、主の声を聞いて励まされて歩みます。この礼拝と牧会の「今日」という日を日々歩み続ける。

生ける神から離れてしまう者がないように、共に歩み続ける。この教会の営みの中で、私たちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです(ヘブライ三・一四)。困難の中でも教会は礼拝を止める訳にはいきません。神様に栄光を帰すだけでなく、お互いに励まし合うためです。様々な事情の下で、そして今日、感染症の下で教会に行けなくなる時こそ、共に励まし合うことを忘れないでいたい。礼拝の説教の言葉から励まされ、またお互いに励まし合う。慰め合うとも言えます。幸い、河内長野教会の皆さんは、電話やメールでよく連絡を取り合っておられますね。私たちはキリストに連なっている者たちですよ、この最初の確信をしっかり持ち続けよう。そう言って励まし慰め合う。長老会の務めの根本は、教会の方向を定め、礼拝を整え、羊を配慮することですが、長老の大事な務めの一つも、教会員の皆さんを覚えて祈り連絡をとって励まし合い慰め合うことです。

困難な日が続きます。でも、今日の苦労は今日だけで十分です。明日のことは明日自らが思い悩む(マタイ六・三四参照)。精一杯、今日を生きながら、むしろ今日という日を、今や恵みの時、今こそ救いの日(Ⅱコリント六・二)として歩みたい。そのようにして「今日」という日の内に神の声を聞き、日々励まし合います。

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