日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2018年9月23日 説教:森田恭一郎牧師

「教会の奇跡」

使徒言行録3章1~10節
皆さんが、教会に初めて来た日のことを思い起こして下さい。何を求めてでしたか?
私は牧師になって四十八年目に入っておりますが三十代前半のころ、中二の娘さんを二週間ほど前に天に送られたお母さんが来られました。
「私がキリスト教の信仰を持ったら天国で娘に会えますか、会えるなら私は教会に来て洗礼を受けたい」とおっしゃった。朝、登校途中でクモ膜下出血を起こし、意識が戻らないまま召されたと。お母さんは泣き叫んだ日々を送ったと言われました。信仰を持ったら娘に天国で会えるか? 切実な願いです。
「確かにキリスト教は天国のことを言います。天国に迎えられます。しかし天国は信仰の完成の場で、自分の願いが叶えられる国ということでは必ずしもありません」と申しました。今思うともう少し丁寧な対応をすればよかったと反省しますが、私の答えは少し厳しく感じられたようで、その後二、三回来られたのち来られなくなりました。

天国での再会を願う、病気が治ることを願う、いろんなことを願って人は教会に来られます。そのことは構いません。言い方を変えれば多くの人が教会に何を求めて来られるか。そのほとんどは自分自身の状況の変化を求めてです。病が良くなること、貧しさからゆとりある生活へ等と状況の変化、ある種の奇跡を求めて教会に来ると言ってもいいかもしれません。
今日の聖書箇所は一つの奇跡の出来事です。この出来事は非常に深いことを示してくれています。
ペトロとヨハネが午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。すると生まれながらの足の不自由な男が運ばれてきた。神殿の境内に入る人々に施しを乞うため毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのです。神殿の中心の奥に十戒が収められている至聖所があり、大祭司でも年に一回しか入れない。至聖所の外側にユダヤ人の庭があり男女別に分かれています。その回りに異邦人の庭があり、異邦人はここまでしか入れないという壁があり、その一部を開けていたのが「美しい門」ということです。

男はユダヤ人でありながらユダヤ人の庭に入れなかった。足が不自由という理由です。レビ記に礼拝できる条件というのが記されているけれど、足の不自由な人はいけないとはない。それはダビデ王のわがままによって決められたことでした。サムエル記下の五章を読んで頂ければわかります。
このエルサレム神殿にはイスラエル中から一年に一度礼拝にきて、鳩や羊をささげて「あなたの罪は赦された」と言われて帰る。赦しは一年間だけのものなので毎年来る。その礼拝に来る人々が門の近くにいる人々に施しをする。施しを受ける人は神からの恵みとして受けたのです。町の門や広場で施しを乞う人は、人間の同情を買ってですが、美しい門のところにいる人々は巡礼者の施しを神の恵みとして受け取る。ここが今日の奇跡の箇所の伏線になっているのです。
この男の前を、第三節彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、とあります。この三節四節五節の中に「見る」という言葉が何回か繰り返されます。これらは使い分けられています。
男は二人を見つめている。すると六節でペトロが言うのです。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう」と。しかしペトロたちが、私たちには今お金の持ち合わせがない、と言ったのではない。そんなことではない。けれども持っているものをあげよう、と言いました。巡礼者の施しは神の恵みとしてこの人は受け取っていたわけです。このことを指します。
私の持っているもの、もっと言うと、私に託されたものをあげよう。ペトロとヨハネに託せられているもの、そのものをあげよう、と言ったということになるわけであります。ペトロとヨハネ、これは初代教会の代表者です。ですからこのところは、私には金や銀はない、しかし教会に託されたその力をあなたに与えよう。巡礼者の施しを神の恵みとするような形での恵みの在り方を私は持っていない、しかし私に託されている、教会に託されている福音、それをあげよう、とペトロとヨハネが言ったということなのです。
あの十字架とご復活、そのことによって示された、その福音の内容、救いの内容をあなたに与えようということを、ここでペトロが言った。教会の代表をして宣言したと言ってもいいと思います。
「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」ということです。福音によって立ちなさい、ということです。これまでのあなたは目に見える力で生きてきた、財産、健康、名誉などそういう地上的な力があると思われているようなもので生きてきたけれども、しかし私は別の力をあげよう。
あの主イエス・キリストは何のために十字架におつき下さったのか、どういう目的で三日目に甦られたのか。あのイエス・キリストを通したあの福音の力によって人生をきちんと歩む。その力をあげようということを、このところでペトロたちは言ったわけであります。

そして、右手をとって彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだした。
ここで彼はなにをしたか?
神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。
みんなから拒まれていたその美しい門を通ってユダヤ人のその庭に入って行って、神を賛美したのです。つまり彼は礼拝者として変えられたということになる。礼拝出来なかった者が礼拝者として立ち上がって神を賛美し、今で言えば、教会の礼拝に参加したということになるのです。
福音によって歩くということは、自分の罪が赦されて、礼拝できる者として変えられたことになるのです。
洗礼を受けるということはどういうことなのでしょうか。罪が赦され清められ、古い自分が死ぬ。そういったことを繰り返しお聞きになったと思います。では新しい自分とはなにか? それは礼拝者ということであります。罪赦されて、ああこれで自分はきれいになった、これで自分は死んだら天国に行ける、ということでは毛頭ない。これで自分は礼拝できる人間に変えられた。これが洗礼を受けるということなんです。
神は聖である、だからあなた方も聖でなければならない。聖なる御神の前に罪人が立てるはずがない。その罪が赦されて初めて私たちは礼拝ができるということです。礼拝が出来るということは、神様との関係がきちんとつながるということです。この神様との関係ということが、一番大切なことなのです。

パウロが語り、ルターが再発見した「信仰による義」という言葉、その義という事柄も神様との関係のことです。私たちは赦された罪人として生きるということにすぎない。信仰の完成は地上の歩みを終えて以降のものにならざるを得ません。

二千年前、パウロとヨハネの前に立つことができるようになった一人の男性、彼は誰のことを言っているのでしょうか。
それはここに集められた皆さん方一人ひとりの事なのです。聖書は他人事ではない自分のことなのです。この足の不自由な男、これは私だ、かつて罪があって神様を礼拝できなかった自分が教会の信仰によって変えられていった。義人は生きるという言葉がありますが、神様との関係が正しくされたということです。この聖書の箇所は二人の弟子が奇跡をしたということではないのです。
私はこの河内長野教会で七十二年前幼児洗礼を受けました。二千年間教会は洗礼式を続けてまいりました。その度に礼拝者を生んできたのです。これが教会の奇跡です。ですから洗礼を受けた皆さんはこの教会の奇跡にあずかっておられるし、これからもこの奇跡を教会は起こし続けていくのです。教会の使命はそこにあるのです。福音を語るということはそういう事なのです。

使徒言行録などを見てまいりますと、いろんな事柄が見えてくる。一章ではイエス様の昇天があり、弟子たち、あるいはマリアたち、子どもたちが集まり一緒に祈っていた。本来なら一緒になれない、だけどもそういう人たちがだんだんとイエス様が何のために十字架に架かったのかに気づき始めたころだから、一緒に祈っていて、ユダのかわりのマティアを決め、もう一回十二人にして隊列を組みなおしたのです。二章ではペンテコステで教会の出発、そしてペトロの説教、三章が今日のところ、教会の奇跡とは何を指すのかということを記してくれています。
イエス様の昇天があって、ペンテコステがあって、ペンテコステによるペトロの説教があって、
教会の奇跡は何かともいうべき、この美しい門の出来事になってくるわけです。
教会の奇跡とは単なる状況変化を起こすことではありません。神様との関係の変化を起こして礼拝者をたてる、それが教会の奇跡であります。
今後ともその礼拝者を生むそのような力ある礼拝を、皆さまと一緒に、場所は違いますけれどもお捧げしたいと願っております。

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