日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2018年10月28日 説教:森田恭一郎牧師

「救い主、陰府まで降る」

創世記6章1~8節
ペテロの手紙一3章17~22節
キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。この御言葉を三つの視点から味わいます。キリストが私たちの罪を贖うために苦しまれたこと。キリストが陰府に降られたこと。この苦しみは私たちの生活を整えるものだという三つです。
それに先立ち一八―一九節。ある聖書はこの個所を、引用句のように一文字下げて記します。信条からの引用らしい。私たちが使徒信条を告白するように、当時の教会が唱えていた文章であったようです。あるいは賛美歌の歌詞だったか。それは今日、信条や讃美歌として残っていないので、正確な所は分かりません。その内容は、キリストがして下さったことを明らかにする、言わばキリスト賛歌です。そう思って読みますと、なるほどキリストの御業を語っています。キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなた方を神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちの所へ行って宣教されました。
それでよくご承知の一点目。キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。私たちの罪の贖いのためです。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。十字架の苦しみと死はご自分の罪を償うためではなく、私たちの罪を代わりに担うためのものです。それ故に私たちが罪の裁きとしての死を受けることは無くなり、私たちの死は天国への入り口としての死になります。

二点目。キリストが陰府に降られたことです。直接「陰府」とは書いていませんが、捕らわれていた霊たちの所へ行ってと表現しています。使徒信条に「ポンテオ・ピラトの下に苦しみを受け、十字架に付けられ、死にて葬られ、陰府に降り」。一連の苦しみの出来事を淡々と告白し、陰府に降ることもキリストの苦しみの一環と読めます。
しかしただ苦しまれたのではない。捕らわれていた霊たちの所へ行って宣教されました。そのためにキリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。この文章は誤解されやすい。肉では死んでも霊魂は生きていると。でも霊魂不滅ではない。キリストも死なれた。私たちもです。ただキリストは、人間としては肉体を持つ者として死なれたが、神の御子として陰府に於いて御業を為さったということでしょう。

使徒信条が形成された過程では、より古い形の文章には「陰府に降り」が無く、後の時代に加筆されたと考えられています。加筆の理由は、キリスト教が異邦人の地域まで広まり、そこで問われたことに応える必要が出てきたからです。例えばこのような問いです。「私の両親はキリストの事を知らないまま信じないで死んだ。この異教の地で一般に信じられているのは人は死んだら陰府に行くのだが、陰府に行ってしまった両親は救われますか」。異教社会での問が寄せられ教会は応えねばならなくなった。そこで例えば「キリストは陰府にまで降って下さって、そこで宣教されました。だからそこで信じることが出来ます」と答える。それが使徒信条にも反映され後に加えられた。その聖書的根拠はこのペトロ書です。
更に考えて、誰も行ったことがない陰府の場所の出来事なのに、ペトロ書は何故こういう文書を記し得たのか。あるいは当時の教会で、信条や賛歌など言い伝えの形が出来ていてそれをペトロ書が引用したなら、何故、既に当時の異教地の教会が陰府に降られたと告白し、歌い得たのか?

キリストは苦しまれました。これは歴史の中の目撃できる出来事です。天から降って地上の歴史の中に来られた主イエスのお姿、その御業、主イエスとの人格的出会い、この歴史的啓示から推察します。復活のキリストに出会った使徒たちが愛を見出し、罪の赦しを経験し、神のみ前に立ち得る者となった。そしてこの歴史的啓示の経験から、あの十字架は、自分もまだ信じていない中で起こった出来事。であるなら、かつての自分と同じように信じていない今の人たち、信じないまま亡くなった人たちのためにも主イエスは十字架にかかられたのだ。そう信じた。そして推察したことを表現すると捕らわれていた霊たちの所へ行って宣教されました、陰府にも降られたとなります。

エフェソ書にこういう表現があります。「天地創造の前に、神は私たちを愛して」(一・四)。誰も天地創造の前のことを知ることは出来ません。でもエフェソ書は大胆に推測します。神は私たちを愛して下さったと。こう推測出来るのは、主イエスの歴史的啓示の故です。その根底にあるのは罪の赦しと神の愛である、と受け止めたからです。
天地創造の前のことは地上の人生の前の事、また陰府の事は後の事です。どちらも私たちが地上で知ることは出来ないことです。でも、出来ないからと言って、私たちには分かりませんとは聖書は言わない。大胆に信じ、大胆に推測し、大胆に聖書に書き記す。それは地上のキリストと人格的に出会う歴史的啓示の確かな根拠があるからです。それで聖書の文書にも記し、あるいは初代教会の信条の告白やキリスト賛歌の言葉にもなる。

さて二〇節、キリストが陰府で宣教なさった霊たちのことを語ります。この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。つまり、キリストを知らなかった人たち、未だ信じないまま地上の人生を終えた人たちのことです。その霊たちの所に行き陰府にまで降って、宣教して下さった。
話はノアの時代のこと。創世記を読みますと、主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた。「私は人を創造したが、これを地上から拭い去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。私はこれらを造ったことを後悔する」。しかし、ノアは主の好意を得た(創世記六・五―八)。ノアが何故か主の好意を得ました。ノアが特別な善い人だからという理由ではありません。好意を得たのは恵みです。
ノアが箱舟を作る間、神様は忍耐して待ちます。人々がノアの箱舟造りを一緒に手伝い、一緒に入れて下さいと申し出ないかと…。海から遠く離れた場所で箱舟を造る。周囲の人は馬鹿にして、ノアが説明しても誰もまともに取り合わない。箱舟が出来上がり、入口の扉を神様が閉じます。そして四十日四十夜、雨が降り続き洪水となり、箱舟の中に入らなかった全ては滅びます。

ペトロ書は興味深いことを語ります。二〇節後半、この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。洪水と言えば、普通は滅びの話です。でもここでは救われた話。洗礼を意識しての話です。洗礼は元は、川で水に沈む動作があり、神様に従わない古い自分が死ぬことを表します。そして水の中から上がる。それで二一節、この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなた方をも救うのです。川から上がる動作は、キリストの復活に与る新しい自分に甦らされることを表します。
洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて…。こう記すのは、単純に洗礼式を見たら、ただ水浴していると誤解されるから。そうではない。神に正しい良心を願い求めることです。洗礼を受けたからといって罪のない立派な人間になる訳ではありません。だから神に正しい良心を願い求めます。神様に従わなかった者が、神様との関係が変化し、罪赦され御前に導かれ礼拝する者となります。

そこから三点目。そのとき人は善を行って苦しむ者(一七節)になり得る。善いことして苦しみを受けるのであって自ら欲して苦しむ訳ではない。だから不条理。ペトロ書は繰り返し語ります。一六節後半、あなた方の良い生活が罵られる。悪口を言われる。一四節、義のために苦しみを受けるのであれば幸い。とは言え、悪口言われたら言い返したくもなるし、心も乱れます。その時に何とかして、乱れる思いをキリストに向けキリストを主と崇めたいものです。それで九節も、悪を以て悪に、侮辱を以て侮辱に報いることをしないで、祝福を受け継ぐとありました。侮辱されても悪口を言われても、祝福を祈る。それがキリスト者の姿です。でも私たちが独力で出来る事ではない。聖霊が導いて下さる。それこそ、神に正しい良心を願い求めることです。改めて一八節の御言葉を味わいたい。キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました、この御言葉を味わう。この御言葉のキリストのお姿を思い起こす。思い深める。この事によって、私たちの日常の生活が心乱されない生活に導かれ形成されていく。これが私たちの今の生活を形成する根拠となります。
そしてキリストは、天に上って神の右におられます。私たちのために執り成し、聖霊を遣わして下さる。キリストの歴史的啓示に根拠を持ち聖霊の導きに支えられて、私たちは歩むことが出来るようにと招かれています。

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