日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2023年4月30日 説教:森田恭一郎牧師

「救い主、再び来たる、完成へ」

アモス八・ 九~一〇
マルコ八・三四~三八

本日の使徒信条の箇所は「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん」です。この箇所で一番気になるのはやはり「審きたまわん」でしょう。結論を先に言えば、審きたもうのは我らの救い主キリストですから、安心して良いということです。謂わば、裁判官の席に座っておられるのは弁護士だから、安心して良いということです。でもそれなら、何故、審くと表現するのでしょうか。それが今日の主題でもあります。

 

まず「かしこより来たりて」。かしこというのは、主イエスが昇られた天のことです。その天から来られる。私たちはよく、天国に行くという言い方をしますが、キリストが天から再び降って来て下さる訳です。天に昇られる時、主イエスは弟子たちを祝福しながら彼らを離れた(ルカ二四・五一)のでした。そして二人の天使が弟子たちに「天に行かれるのをあなた方が見たのと同じ有様で、またおいでになる」(使徒言行録一・一一)と言われたのですから、祝福なさる有様でおいで下さる。   そして「生ける者と死ねる者とを」。再臨の時に生きている人ともう死んでしまった人がいる。福音に触れないまま死んでしまった人も居る。でもその全ての人の所に来て下さって例外なく全員ということです。この祝福から漏れる者はいない。  そして「審きたまわん」。私たちは審かれてしまうの?っと、恐ろしくも思います。でも審かれないとしたらどうなるでしょう? 悪いことをしても審かれない。それなら悪い事した者得になってしまいます。特に被害者の立場に立ってみると、悪が悪として審かれないまま終わるとしたら、何とやるせないことでしょう。いけない事はいけない。善悪はどうでもいいことではない、そのように神様の御前でこれが明らかになる。審きは必要です。                     先ほどアモス書を読みました。その日、審きの日です。その日が来ると、と主なる神は言われる。私は真昼に太陽を沈ませ、白昼に大地を闇とする。私はお前たちの祭りを悲しみに、喜びの歌をことごとく嘆きの歌に変え、どの腰にも粗布をまとわせ、どの頭の髪の毛もそり落とさせ、独り子を亡くしたような悲しみを与え、その最期を苦悩に満ちた日とする(アモス書八・九~一〇)。一一節にも一三節にも「その日」とあります。特に一一節は有名です。見よ、その日が来ればと主なる神が言われる。私は大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく、水に渇くことでもなく、主の言葉を聞くことの出来ぬ飢えと渇きだ。そして一三節以下では、その日には、美しいおとめも力強い若者も渇きのために気を失う。倒れて再びたちあがることはない。

そして九章一一節一三節にまた「その日」の記述があります。でもここを読むと八章の「その日」とは内容が異なり回復を語ります。その日には、私はダビデの倒れた仮庵を復興し、その破れを修復し、廃虚を復興して、昔の日のように建て直す。こうして、エドムの生き残りの者と、わが名をもって呼ばれるすべての国を、彼らに所有させよう、と主は言われる。主はこの事を行われる。     見よ、その日が来れば、と主は言われる。耕す者は、刈り入れる者に続き、ぶどうを踏む者は、種蒔く者に続く。山々はぶどうの汁を滴らせ、すべての丘は溶けて流れる。私は、わが民イスラエルの繁栄を回復する。彼らは荒された町を建て直して住み、ぶどう畑を作って、ぶどう酒を飲み、園を造って、実りを食べる。私は彼らをその土地に植え付ける。私が与えた地から、再び彼らが引き抜かれることは決してないと、あなたの神なる主は言われる。この変化をもたらす転換点は何なのか。

先ほどの八章九節に、その日が来ると、と主なる神は言われる。私は真昼に太陽を沈ませ、白昼に大地を闇とするとありました。ここを読みあの場面を思い起こしますね。言うまでもありません。主イエスの十字架の場面です。私たちの全ての罪を背負われて、代わりに審きを担われたあの十字架の場面です。昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時に主イエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」(マルコ一五・三三~三四)。アモス書の八章が記すあの「その日」が、十字架の時に成就しました。主イエスは十字架上「わが神、わが神、何故私をおみすてになったのですか」と大声で叫ばれましたが、主なる神様からの主の言葉は何も聞こえません。み言葉を聞くことの出来ぬ飢え渇きが主イエスを襲ったのでした。この主イエスのご受難が、アモス書八章の「その日」を成就させ、私たちが迎えるべき新しいその日、アモス書九章の「その日」に転換させた訳です。                               さて、今日は新約聖書、マルコ福音書から引用しました。それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。 「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。神に背いたこの罪深い時代に、私と私の言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来ると時に、その者を恥じる」(マルコ八・三四~三八)。        この箇所を読みながら、今回思い浮かんだことがありました。「全世界を手に入れる」とか「自分の命を失う」とかありますが、私たちは、その生活の時々であれ、人生の終わりを迎えての時であれ、自分の有り様、生き方の評価を度々している上手くいった、大成功だ、後悔なし。そう思えることをここでは「全世界を手に入れる」と少々大袈裟ですが表現しています。逆に、上手くいかなかった、大失敗だ、後悔先に立たず。そう思うときのことを「自分の命を失う」と表現しています。失敗したと思うとき、やり直しが効くなら失敗は成功のもとと再挑戦して「自分の命を買い戻す」訳です。大成功か大失敗か、これは自分の判断、自分の尺度です。主イエスが私たちの人生をご覧になって判断なさるのは、私と私の言葉を恥じるかどうかです。これが主イエスの尺度です。    ここでは主イエスは「審く」という言い方はなさいませんでしたが、「恥じる」と言われました。親は自分の子どもが人様に前でちゃんとしないと、親として恥ずかしい思いを致します。逆に子どもが何か手柄を立てたりすると、親として子どもを誇らしく思ったりもします。どちらにしても親が自分でしたことではないのに恥じたり誇らしく思ったりします。主イエスは、私たちがキリストとその福音を受け入れないで恥じると、御自身も私たちを恥じるというのです。                                  パウロは「私は福音を恥としない」(ローマ一・一六)と言いました。主イエスは、御自身と福音を恥じた者に対して、私も「恥じる」と言われた訳です。それは、私はそのようなお前を恥じるが、お前は今、私と福音を恥じるのか、とお問になって、そのようなことはもう無いだろうね、と私たちに迫ってくる訳です。それに対して、主イエスと福音を恥じて受け入れなかったことは違ってましたと申し開きをして、キリストをほめたたえるようになるというのが、審判の本質です。神が神として、主イエスがキリストとして明らかになる。

パウロはまた、異教の神々が沢山いる社会状況を踏まえてこう言いました。私たちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、私たちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在しているのです(Ⅰコリント八・六)。唯一の真の神が私たちを支えておられるのです。キリストがおいでになる「その日」には、このことが明らかになって、主イエスのみ言葉を聴き、私たちは万物の礼拝をささげるのです。

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