日本キリスト教団河内長野教会

メニュー

kawachinagano-church, since 1905.

説教集

SERMONS

2023年8月6日 説教:森田恭一郎牧師

「救いへと全ての人を引き寄せよう」

エゼキエル二・八~三・三
ヨハネ黙示録一〇・一~一一

先週は、黙示録九章終わりまでの箇所を一瞥しながら、第一の天使から第六の天使がラッパを吹いて災いをもたらすが審判だけでは人は悔い改めや信仰に至らない、それがはっきりした。それで第七の天使がラッパを吹くとき、神の秘められた計画が成就する(黙示録一〇・七) という一〇章のステップへと進む黙示録の文章展開を展望しました。「神の秘められた計画」には、悔い改めない者には審判ということもあるでしょう。がむしろ、悔い改めない者が一人も残らないように、主イエスが悔い改めさせるために来て下さったことを踏まえてのご計画です。その御心は主イエスの御生涯から明らかです。主イエスの罪人への招きがあり、その招きは、一方的かつ圧倒的で、気付いてみたらその御手の中に自分があったというような招きです。それが私たち信仰者の実際でしょう。それは審判によってもたらされるものではなく、愛の迫りがあって悔い改めへと私たちを招きます。以上が先週の説教で申し上げたかったことです。

 

続く今日の箇所は、九章で第六の天使がラッパを吹いてから、次の第七の天使が一一章一五節でラッパを吹くまでの間の部分です。この一一章前半までの結論を先んじて言いますと、多くの民族、国民、言葉の違う民、また、王たち(黙示録一〇・一一)即ち、未信者の全ての人たちの、残された者たちが、いわば悔い改めて恐れを抱いて天の神の栄光をたたえた(黙示録一一・一三)。 今日の招詞のキリストの言葉で表現すると、私は地上から上げられるとき、全ての人を自分のもとへ引き寄せよう(ヨハネ一二・三二)。全ての人の救いをお望みです。今は敵対していてもお互い同士の救いを確信していい。そこに平和の根拠と希望があると言えます。 そして一一章で言及されますが、黙示録はこのご計画のために教会が果たすべきことを語ります。まず自分自身が救いを喜んで生きる。それが証人として生きることになります。また自分にとって来てみたい教会、地域の方たちには行ってみたい教会になりますし、地域の信頼に応える生き方にもなるに違いありません。

 

それで一〇章の初めの所ですがもう一人の力強い天使が登場します。手には開いた小さな巻物を持っています(黙示録一〇・二)。 もう一人、という訳ですから、別のもう一人がいた訳で、それは五章に登場しています。また私は、玉座に座っておられる方の右の手に巻物があるのを見た。表にも裏にも字が書いてあり、七つの封印で封じられていた。また一人の力強い天使が「封印を解いて、この巻物を開くのに相応しいものは誰か」と大声で告げるのを見た(黙示録五・一~)。 五章では、この力強い天使の問いかけに応えて、小羊なるキリストだけが相応しい方だと語っている訳です。 この五章の力強い天使と対になって、一〇章でも力強い天使がやはり同じ巻物を持っている。

 

この天使の登場と合わせて七つの雷が夫々の声で語った。七つの雷が語ったとき、私は書き留めようとした。すると、天から声があって、「七つの雷が語ったことは秘めておけ。それを書き留めてはいけない」と言うのが聞こえた(黙示録一〇・三~)。 なぜ秘めておかねばならないのか。恐らく七つの雷の声が言いたかったのは、これまでの所で、四分の一が滅びる(六章)、三分の一が滅びる(八~九章)と言っていたのを受けて、雷の声は、次は二分の一が滅びると語ったのではないでしょうか。でもそれを秘めておけ。書き留めてはいけないとヨハネは命ぜられる訳です。

すると、海と地の上に立つのを私が見たあの天使が、右手を天に上げ、世々限りなく生きておられる方にかけて誓った。すなわち、天とその中にあるもの、地とその中にあるもの、海とその中にあるものを創造された方にかけてこう誓った。「もはや時がない。第七の天使がラッパを吹くとき、神の秘められた計画が成就する。それは、神が御自分の僕である預言者たちに良い知らせとして告げられた通りである」(黙示録五・五~)。

二分の一の滅びの話は秘めておけ、代わりに、良い知らせとして告げられてきたことが、神の秘められた計画としてあるのだ、と天使が語るのをヨハネが見る。皆さん、ヨハネ黙示録というと、世界の滅びを告げている、そのようなイメージを持ってしまいがちなのですが、黙示録も良い知らせ、福音を語っている訳です。しかもそれは、先ほどのまだ未信者の多くの民族、国民、言葉の違う民、また、王たちについても視野に入れて、あくまでも良い知らせ=福音を語っている。この点、勘違いしないように注意しなければなりません。

 

さて、力強い天使が手にしていたあの巻物、天使は私に言った。「受け取って、食べてしまえ。それは、あなたの腹には苦いが、口には蜜のように甘い」(黙示録五・九)。 ここで天使が語っていることは、先ほど読みましたエゼキエル書の記事を思い起こさせてくれる文章です。ヨハネ黙示録についての一般的イメージからすると、ヨハネ黙示録は人類が経験したこともないような恐ろしい滅びを語っているようなイメージがありますが、ヨハネ自身は、エゼキエル書、それから特にダニエル書などの旧約聖書の言葉を、黙想して、そこで示されたことを、神→キリスト→天使→ヨハネに与えられた啓示として、黙示文学の表現を用いて語っているだけなのですね。

そしてこの巻物の内容が、啓示された核にな部分です。私は、その小さな巻物を天使の手から受け取って、食べてしまった。それは、口には蜜のように甘かったが、食べると、私の腹は苦くなった(黙示録五・一〇)。 なぜ甘くて苦いのか。良い知らせ=福音だから甘いに違いない。でも福音というのは、罪を抱えた人間、時に信仰もふらつく。その一人ひとりの人生を生きる人間の救いです。生きる労苦、弱さや病、死の不安と悲しみ、人間関係の生き辛さを抱えている人間の救いです。エゼキエルの表現を借りるなら、巻物の表にも裏にも文字が記されていた。それは哀歌と、呻きと、嘆きの言葉であった(エゼキエル二・一〇)。これは苦くて当然。そしてキリストは、人間の全てを、贖罪の死を負われ、その飲み干した杯は益々苦い。

 

聖餐式です。何よりも、十字架の主の死を告げ知らせる聖餐式です。苦さを味わいます。誰よりも自分の罪と自分の人生の苦さがあり、そしてキリストだけが負われた裁きの苦さがある。しかしその贖罪から甘い恵みの豊かさを味わいます。

カテゴリー