日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2018年12月2日 説教:森田恭一郎牧師

「愛は多くの罪を覆う」

イザヤ書2章2~5節
ペテロの手紙一4章7~11節
今日の聖書個所の段落は、以下の五つの事柄を順に語ります。①万物の終わりが迫っていること→②祈ること→③愛すること→④仕えること→⑤神の栄光のために。説教も順に語っていきます。

まず①番目。万物の終わりが迫っている。終わりとは、滅びではなくゴール・目標の事です。待降節を迎えました。教会暦では旧約の時代に身を置いて救い主の来たり給うを待ち望みます。実際には、主イエス・キリストの再び来たり給うを待ち望みます。万物の終わりが迫っている、文法的には完了形なので、万物の終わりがいよいよ迫ってきたと言っても良い程です。でも、どんなに待っても世の終わりは全然来ない、もう二千年も経っているではないかと思うことも多いと思います。
迫ってきたというのは時間の短さというより、キリストを通して世の終わりがどういうものか、はっきりと見えてきたということです。聖餐式の式文の中に「主の死を告げ知らせる」とありますが、主の死の出来事とその意味を意識することです。あの十字架の死に於いて、私たちの罪が贖われ、罪赦された。ここに神の御栄光が既に現れている。それ故、終末を滅びの事柄としてではなく、救いの希望の事柄として受けとめます。
今日の旧約聖書のイザヤ書は、終わりの日にと語り出して、その光景をこう語ります。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。終わりの日は基本的に平和と光のイメージです。
昨日はクリスマスコンサートを開催しました。
その時に歌われた曲の中に、終末の光景を歌っているような歌詞がありました。「私に歌を下さい。希望の歌を。哀しみを勇気に変える、苦しみを慰めに変える、そんな歌を一つ私に下さい」。終末の光景ですね。ヴァイオリンの奏でる音色にしても、歌うその響きにしても、芸術は人に慰めと勇気とそして希望を与えるのだと思ったことです。

②番目は祈りです。先程の曲の二節はこういう歌詞でした。「歌」を「祈り」と入れ替えて聞いてみて下さい。「私に歌を下さい。平和の歌を。憎しみを祈りに変える、嘲りを微笑みに変える、そんな歌を一つ私に下さい」。この歌詞も、そのまま祈りの言葉だと言っても良い程です。聖句は七節の後半です。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。直訳は、祈ることに向けて思慮深く振る舞い身を慎みなさい。道徳律として思慮深く身を慎めではなく、祈りに集中する勧めです。万物の目標が見えて来た、神の御栄光が輝いている。武器ではなく喜びの中に皆が平和になっている。そこに至る神のご計画がある、ここに思いを向け思慮深くあります。
当時は迫害があり、今でもキリスト教に対して世間が心を閉ざしているかもしれない。また病になったり障がいがあって色々な痛みを抱えていたり、経済的社会的に労苦を担っていることもあるでしょう。今日の招きの言葉の詩編一三〇篇、深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。深い淵の底です。何か苦難の中にあります。
でも、だから諦めるのではない。そこから呼び求めます。主よ、この声を聞き取って下さい。その声は、嘆き祈る私の声に耳を傾けて下さいという声。教会は嘆き祈ることが遠慮なく出来る場所のはずです。教会だからこそ、嘆いて祈る、悲しんで祈る、叫んで祈る、そういう祈りがあって構わない。でもそう祈りながらも、万物の終わり=神の目標に向かっての希望の中にある、その中での嘆き、悲しみ、叫びです。希望について思慮深く見失わないで祈る。だから絶望せず自暴自棄にもならずに身を慎んで生きる。そうやって、自分の思いも日常の営みも祈りに向けて整えられます。

③番目は愛です。八節、何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。愛は多くの罪を覆う。良い言葉ですね。この言葉、日本語では「尻拭い」という表現がしっくりくるでしょうか。他人の失敗の後始末をすることです。相手に失敗があった時に、責めるのではなく補う。思いやるとか罪を赦すと言ってもいいですが、気持ちだけでなく、相手の失敗を実際に覆い尻拭いする、行為のニュアンスが込められている日本語表現です。
聖書では覆うは、隠すと対で用いられることがあります。マタイ一〇章二六節、覆われているもので現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。私が暗闇であなた方に言うことを明るみで言いなさい。それから、箴言一〇章一一―一二節も対になっています。神に従う人の口は命の源、神に逆らう者の口は不法を隠す。憎しみはいさかいを引き起こす。愛は全ての罪を覆う。箴言では愛は多くの罪でなく全ての罪を覆う。意味は同じ。
主イエスが何故暗闇で言うのか。十字架以前なので受難のことを明るみで言っても誰も理解しないからです。まして十字架の意味は理解出来ない。それで弟子たちには後で語りなさいと耳打ちするように密かに暗闇で言う。その事柄は、十字架での贖罪、復活における赦しと希望、つまり愛の恵みの事です。罪を覆い隠すのは、キリストが私たちの罪の尻拭いをして下さる神の愛の出来事です。

④番目は仕える、一〇―一一節、あなた方は夫々、賜物を授かっているのですから、神の様々な恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。賜物を生かすというのを、具体的な愛の業として語るなら九節、不平を言わず互いにもてなし合いなさい。賜物を授かっている。皆さんは自分の賜物をどれだけ見出していますか。その賜物の恵みの良い管理者として歩む。
先週の婦人会・壮年会の合同例会で、当日の説教から恵みを分かち合いました。その中で、先週の聖書個所に出てきた忍耐と我慢について話が及びました。忍耐と我慢とどう違うのか。病気や怪我の痛みなど我慢するしかない。でもそれがリハビリ段階になると辛いのは同じでも回復に至る希望の中でリハビリに励むとすれば、それは忍耐だと申し上げた。そうしましたらある方が、病気になったからこそ、健康の有難さ、生かされていることの喜びに気付くことがある。それは我慢というよりは忍耐じゃないですか、と言われました。私は、我慢と忍耐が別々にあるように説明しましたが、我慢が忍耐に変化することについて教わりました。我慢を管理して、忍耐や恵みにしていく。

そして我慢を忍耐にしていくことを、自分だけでなく分かち合い、我慢の時に慰め、忍耐を共にし、恵みを喜べるようにしていく。そのように互いに仕える。仕えるはディアコニアという言葉です。交わりはコイノーニア。先日ある方に、教会の皆さんは、皆さん同士で良く連絡を取り合い安否を気遣い交わりがあっていいですね、と申しましたら、その方が「共に読み語る会で『慰めのコイノーニア』を読み始めているけれどエクレシア(教会)だけでのうて、コイノーニアも必要やね」と仰いました。ディアコニアし合うコイノーニア、仕え合う交わり。教会で恵みを得て仕え合う交わりの共同体。的確な洞察だと恐れ入りました。
書物の第一章の終わりの部分を紹介します。「これから私たちは、キリストの教会とは何か一緒に考えます。特に教会こそ『慰めに生きるコイノーニア』であることを学び直します。そのコイノーニアに生きるエクレーシアとしての生き方を学び、実際に生きようと願っております」。この書物は、仕え合うことに生きる教会を語ります。
⑤番目は、神の栄光です。一一節、語る者は、神の言葉を語るに相応しく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、全てのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン。私たちの人生と生活の全ての歩みは、神の栄光のためにあります。日本語訳では、神にありますようにと願望のように訳されていますが、むしろ、栄光と力が神にある!アーメンという現在形の言葉で、言ってみれば宣言です。

でもその栄光は、遠くの方に孤高に輝いている
より、むしろ栄光を誉めたたえるのは私たちであり、更に、自分たちだけでなく、他の罪人も栄光をたたえる中に巻き込まれている、そういう神のご計画を語っています。二章一二節を思い起こすと「そうすれば、彼らはあなた方を悪人呼ばわりしてはいても、あなた方の立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります」。自分に賜物を与えられ用いられて、彼ら異教徒たちも含めた全ての者たちが神の栄光をたたえるようになる。それが仰ぎ見る終末の光景です。
そこから、私たちは未信者の町の人、友人たち、家族も、あなたとも終わりの日には一緒に神の栄光をほめたたえるようになる、と思いながら眼差しを向けることが出来るようになります。終末の光景を思い、思慮深く、祈りながら、愛し、仕え、交わりを作って生きていく。それが待降節の生き方なのだと、聖書は私たちに希望を語っています。

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