日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2024年2月25日 説教:森田恭一郎牧師

「惑わしは人を迷わせ、真理は生かす」

出エジプト記二三・一二
ガラテヤ 五・七~一二

私たちは今日も教会の礼拝に集いました。当たり前のようにして集いました。でも思えば、このように集っているのは、主イエス・キリストからのお招きを戴いているからです。教会は召された者の集いであり、私たちはその一人ひとりです。主イエスのお招きを私たちは大切にしたい。

先週の礼拝後にアナウンスがあり、また今日の週報にも載せましたが、三月第二週に懇談会を開きます。子育ての方が中心になっている記念誌編集実行委員会、といっても検討委員会ですが、それこそまずはやってみようと懇談会を開く事になりました。記念誌に内容の相応しい部分は掲載しても良いし、との思いです。その大きなテーマは「教会生活」。そして、参加人数に応じて小グループを作って色んな懇談をしよう。そこで出てきたテーマの一つが「信仰者でないパートナーとの信仰生活について」です。信仰者でない方と結婚された夫婦もあれな、結婚後自分だけが洗礼を受けた夫婦もあるでしょう。これがテーマの一つとして出てきたことに、信仰者でないパートナーとの信仰生活について、課題や労苦を感じ、そして配偶者の相手も招かれて欲しいとの切実な願いがあるのだなと、主イエスの招きへの真面目な思いを垣間見させて戴いたと感じています。

 

今日の招きの言葉でマルコ福音書から選びました(新約聖書六四頁)。「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ二・一七)。お招き下さいました。ここで主イエスがこう語られた相手はファリサイ派の律法学者でした。彼らはこのお招きを受けてどうしたでしょうか。福音書にその記事はありません。

次の記事では「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ」(マルコ二・二二)と主イエスがお語りになりました。ファリサイ派の人々の反応は記事に載っていない。そしてその次には「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある」(マルコ二・二七~二八)。彼らの反応は記事にはありません。

そしてもう一つ、三章です。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」(マルコ三・四)。主イエスが問いかけられました。 ここでは人々の反応が記事になっています。彼らは黙っていた。そして、ファリサイ派の人々は、安息日のこの会堂から出て行き、イエスを殺そうと相談し始めたのでした。主イエスの一連のを招きを、彼らは明確に拒否しました。

この日、会堂で起こった出来事は、主イエスが、片手の萎えた人の病気を癒されたことでした。主イエスはこの人に「真ん中に立ちなさい」とお招きになります。御自身の所へと。恐らく会堂の後ろの方にいたこの人に、前へと、真ん中へとお招きになりました。この人は真ん中へ、主イエスの折られるその所に、萎えた手を抱えたまま一歩を踏み出しました。そして主イエスは「手を伸ばしなさい」と言われました。この人は、これまで何度も試みても萎えてしまって伸びない手を、伸ばしました。そうしたら手は元通りになりました。主イエスのお招きに応えて伸ばした、そして癒しが起こった。 主イエスのお招きを受けて癒されたのは、この人の手だけではない。萎えた心も癒された。真ん中に立ちなさい、と招きを受けて、萎えた手を抱えたまま、主イエスに向かって心を高く上げた。主イエスのお招きを拒みませんでした。自分に向けられたお招きを大切に受けとめました。そして、一歩踏み出した。主イエスの所へと歩み出した。これがこの人の人生となりました。

 

主イエスは人々にお問になりました。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」。主イエスの律法は命を救う律法です。主イエスの律法は、片手の萎えたこの人を生かしました。それに対し、律法学者の律法は人を生かさない。それどころか、安息日にしてはいけないことをしたと、主イエスに躓いて、彼らの律法は主イエスを殺す律法となりました。

「安息日を心に留め、これを聖別せよ」。私たちは十戒を唱えます。一週間の生活の中で安息日を、神様に礼拝をささげる日として特別に取っておきなさい。そのために仕事をしたりして礼拝をおろそかにしてはいけない、という意味です。それで律法学者たちは、安息日に仕事をした主イエスを律法違反だと断じた訳です。判断した。

けれども、萎えた体も心も癒す主イエスの御業、その御業が安息日にこそ実現し、これを受けて人々が主イエスの御名をたたえる、それが安息日に最も相応しい。

律法の心を律法自身が語っています。「あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばならない」(出エジプト記二三・一二)。そして続けて「それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである」。律法学者はこの後半の律法の言葉を読み落としました。主イエスは逆に、片手の萎えた人の元気を回復させました。それこそが安息日に相応しいことでした。主イエスと共にあるこの恵みの中に、主イエスはお招きになっています。

 

さてガラテヤ書。パウロは言います。あなた方は、よく走っていました(ガラテヤ五・七)。どこに向かって走っていたのでしょう。お招き下さる主イエスに向かってです。それなのに、一体誰が邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか。このような誘いは、あなた方を召し出しておられる方からのものではありません。真理は人を自由にし、相手を生かすようにと私たちを導きます。 律法学者や、ガラテヤ書ではその影響を受けているユダヤ教からキリスト教に改宗した人たちは、律法には従いましたが、誤って理解し、真理に従わず人を生かさないようになりました。主イエスが招き、召し出し(「呼ぶ」という同じ言葉です)て下さることを大切にしなかったからです。

この人たちは、ユダヤ教から改宗したキリスト教徒なのに、ユダヤ教の価値観、律法観を大切にしました。その価値観は結局、十字架の躓き (ガラテヤ五・一一)を越えられません。十字架にかかるようなイエスは神ではない、とどこかで思う。十字架にかかられたイエスを救い主として信じる、それは無意味で役だ立たないのではないか、とどこかで思う。それよりも律法を守って生きる方が、良い生き方だ、とどこかで思う。そうやって主イエスに躓く。主イエスを信じるだけでは不充分だと思っている。

これらの思いは、真理に従わない、主イエスの召きを大切にしない誘い(ガラテヤ五・七)であり、福音とは別の考え(ガラテヤ五・一〇)であり、不信仰へとかき乱す(ガラテヤ五・一二)思いです。

 

私たちはキリスト教徒としてここに集っていますが、現代、そして日本という主イエスの招きを受けようとしない文化の価値観の世界に生きています。私たちにも課題は幾らでもある。誘いにいつも晒されている。「信仰者でないパートナーとの信仰生活について」も課題があるに違いない。パウロはでもこう語ります。私は主を拠り所としてあなた方を信頼しています(ガラテヤ五・一〇)。希望を見出しています。 現代・日本における私たちの様々な課題、信仰者でないパートナーとの信仰生活についての課題、そこにも希望がある。主を拠り所にするからです。主イエスが今日も招き続けて下さるからです。 「真ん中に立ちなさい。手を伸ばしなさい」。 その招きを大切にするからです。諦めずに、課題の中で希望を以て歩みます。

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