日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2022年6月5日 説教:森田恭一郎牧師

「平和へと、全ての人に聖霊を」

イザヤ三二・一五~一八
エフェソ二・一九~二二

ペンテコステ=聖霊降臨日おめでとうございます。ペンテコステは、教会の誕生日とも言われます。使徒言行録二章によりますと、この日、一同が一つになって集まり祈っていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、炎のような舌が一人ひとりの上に留まって、一同聖霊に満たされました。すると、ガリラヤの人たちが、そこに集まってきた人たちの故郷の言葉で語り出しました。この様子をペトロが、ヨエル三章を引用してその成就だと説明します。その後、私はすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。そして、神は十字架のイエスを救い主として下さった、と語り始め、主イエスの福音をそこにいる人たちに伝えました。その日に三千人ほどが洗礼を受け仲間に加わりました。その後も、主は救われる人々を日々仲間に加えて一つにされたのでした。使徒たちが中心になって福音を告げ知らせ始めた教会の誕生です。教会とは、建物でもなく、単なる人の集まりでもなく、福音を告げ知らせる教会の働き、礼拝と伝道の働きです。

 

旧約聖書も、この聖霊の降臨の出来事を色々と語っていますが、新約聖書は、これが主イエスの福音と共に歴史の中に起こった。教会がその現れだと語ります。新約聖書は、先程のヨエル書にしても、今日の旧約聖書のイザヤ書の言葉にしても、これが生じる所に教会が誕生した、そういう出来事として理解します。ついに、我々の上に、霊が高い天から注がれる。荒れ野は園となり、園は森と見なされる。そのとき、荒れ野に公平が宿り、園に正義が住まう。正義が造り出すものは平和であり、正義が生み出すものは、とこしえに安らかな信頼である。わが民は平和の住みか、安らかな宿、憂いなき休息の場所に住まう(イザヤ三二・一五~一八)。

このような箇所を読んで、どうお感じに成られるでしょうか。歴史の完成する終末の教会の理想的な様子としてならまだしも、この世の歴史の現実はそうではない、とお思いになるでしょうか。教会を巡る内外の歴史を振り返れば、現実は理想とはほど遠い。そうかもしれません。でも、そこで、「教会を信じる」ことが必要です。

 

エフェソ書も、霊の働きの出来事として教会を語ります。それで、このキリストによって私たち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことが出来るのです。従って、あなた方はもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています(エフェソ二・一八~二〇)。

この箇所も、そうか私たちは、一つの霊に結ばれた聖なる民、聖なる家族なのだ、と信じることが大切です。信じるというのはしかし、思い込むことではありません。もし信じられないなと思うなら、願ったら良い、祈ったら良い。

先日、ある文書を読みました。幼子を残したまま親が癌で亡くなられた時の保育園やこども園の保育者への文章です。まずは神に戸惑いと怒りをぶつけます。遠慮は要りません。大地をどんなに踏みつけても地面が割れないように、ありったけの激情をほとばしらせても神は正面から受けとめます。そしてその子に何が必要なのか、どんな人生を歩んで欲しいのか、言葉を選ばず願いを語ってみて下さい。そのような隠れた祈りが積み重なる毎に、あなたの眼差し、表情、振る舞い、行動が変わります。結果として寄り添う世界が現れると思うのです(「キリスト教保育」六月号43頁)。

教会も、そして世界も同じですね。理想から程遠い現実を見てしまう時、神様に戸惑いや怒りをぶつける。どうあって欲しいのか、どうありたいのか、願いをぶつける。このような祈りが積み重なると、寄り添う世界が現れるのではないか。

 

先日の祈祷会では今日のエフェソ書の聖句を巡って語り合いました。共同黙想です。ある方が、人はどうしても人間の知恵で解決しようと思ってしまう。そこに神様の働きがあることが大事ですね、と言われました。これは私たち人間の側から言うと、まさに神様に戸惑いや祈りをぶつけて受けとめてもらうことです。そこから何かが変わる。神の働きが現れてくる。

あるいはこういう感想もありました。新約聖書の記事は、二千年前に直接、主イエスに出会った人の文書で、それから時を経てそこに歴史が生じてしまうと、なかなか文章通りにはいかない。なるほどと思いました。

実は、エフェソ書自身が、時間を経た歴史の中で苦闘しながら書いている。著者はパウロの弟子。エフェソの教会の人たちも主イエスには直接出会っていない。だから、主イエスの福音を告げ知らせる使徒や預言者という土台が必要です。続けてエフェソ書は語ります。

その要石はキリスト・イエス御自身であり・・・(エフェソ二・二〇)。要石と訳すとアーチの最後のてっぺんにある仕上げの石のことになりますが、口語訳聖書などでは隅のかしら石などとも訳して、土台の更に礎となる石のことになります。この方が続く成長するというイメージにも合うようです。

エフェソ書も主イエスに直接は出会っていない。そのような中で、エフェソ書の著者は、教会を信じながら、教会の中に信仰の現実と成長していく将来の夢を見出している。

 

旧約の時代からそうだったのでしょうが、ユダヤ人と異邦人、敵意が両者を隔てる壁となっていた。ところが、遠く離れている異邦人にも近くにいるユダヤ人にも、平和の福音が告げ知らされて、教会ではキリストによって一つの霊に結ばれて、共にキリストの神を信じる者となっている。教会のあなた方はそうなっているではないか。この平和の事実に想いを向けています。

そして、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります(エフェソ二・二一)。一つではなかった者が、教会では福音を共に信じながら、組み合わされて成長する。皆さんの存在と働き、教会の働きが組み合わされている。仲違いではなく組み合わされていく。組み合わせて下さるのは聖霊です。それでキリストにおいて、あなた方も共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです(エフェソ二・二二)。大事なのはこの将来に向かう夢を信じて祈り続けることです。

 

聖霊降臨。聖霊が働いて下さるとき、神様と自分が、主イエスと自分が教会を媒介にして繋がります。何か聖霊に満たされたというような実感が伴わないと聖霊が降臨しているように感じないと思われるかも知れませんが、「我は聖霊を信ず」。実感の問題ではなく信仰です。聖霊の働きを、教会が建てられていくという事に見出していきます。

もっとも、私たちは弱いですから、いわば実感を伴うことを主イエスは制定して下さいました。聖餐です。パンを食し杯から飲む。体の中に入ってくる実体験です。その体験を、聖霊は、私のためにキリストが体を裂かれ血を流して下さった、という意味ある信仰経験にさせくれます。聖霊の介在がなければ、ただパンを食し杯から飲んだだけのことです。ここに聖霊が働いて下さり、神様と自分が、主イエスと自分が繋がります。

聖餐に与る私たちは、成るほど、既に神の家族、教会は神の住まいです。教会はこの福音を告げ知らせます。世界の平和の土台は福音にあります。

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