日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2019年10月27日 説教:森田恭一郎牧師

「命に至るように」

創世記一八・二二―二六
Ⅰヨハネ五・一三―一七

今日は執り成しの祈りについて思いを深めます。今日の聖書個所には「祈る」という言葉の代わりに「願う」という言い方で出てきます。何事でも神の御心に適うことを私たちが願うなら、神は聞き入れて下さる(一三節)。罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい。そうすれば、神はその人に命をお与えになります(一六節前半)などです。

今日の聖書個所の中に戸惑う聖句があります。それは、死に至る罪があります。これについては、神に願うようにとは言いません(一六節後半)。もし自分に死に至る罪があるとしたら、祈ってもらえない、突き放された感じさえします。そもそも、死に至る罪とは何か? 罪は全てイエス・キリストが贖って下さったのではなかったのか。

思い起こすのは「人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦されるが、〝霊〟に対する冒瀆は赦されない」(マタイ一二・三一)と主イエスが仰った御言葉です。罪を贖うそのイエスを主と告白出来るのは聖霊によってです(Ⅰコリント一二・三参照)。他の罪は全て赦されても、その聖霊を冒瀆する罪を犯したら、誰も救い主に繋がらなくなってしまう。これは成る程、死に至る罪と言えるでしょう。

それにしても、死に至る罪については、神に願うようにとは言いませんとはどういうことか。これこそ神に願って、聖霊冒瀆の罪の赦しを祈ってもらうべきではないか。

 

ここから思う事は…、私たちには赦せないことがあるということです。例えば、罪を犯した加害者、例えば自分の家族を殺害した殺人犯、その人への赦しをたやすく祈れるだろうか。今日の常識として、ドイツ・ナチスヒトラーのためにたやすく赦しを祈ることが出来るだろうか。戦争で家族を虐殺された被害者が侵略者にたやすく赦しを祈れるだろうか。普通は出来ないと思います。福音書でも、主イエスを裏切ったイスカリオテのユダを福音書の記者たちはたやすく赦していないと思います。

ヨハネにも赦せない罪があった。それは、イエス・キリストが肉となって来られたこと、イエスの神であること、キリストの人であることを否定し、肉を以て生きているお互い同士を大切にしない、隣人愛に生きようとしない姿勢です。もし、教会外の未信者の人たちがそのように考えるのなら、これは伝道すればいいことですから許容範囲であったでしょう。

赦せないのは、教会の中の人がそう考えた。それはヨハネからすれば信仰が誤っている。教会に分裂をもたらす考えであり、教会を破壊するに至る行為でした。だから、死に至る罪がある、これについては神に願うようには言わないと記した。赦す訳にはいかない、という位の思いがあったことでしょう。教会が破壊されるからです。そして教会が破壊されたら、信仰は、後の世代に正しく伝わって行かないからです。見過ごせなかった。

 

それなら赦さなくていいという事でしょうか? そこで創世記一八章二三節以下の聖句を選びました。アブラハムの執り成しの場面です。アブラハムは進み出て言った。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。 正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたが為さるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか」。

ここでアブラハムは悪い者のために赦しを求める執り成しはしていません。彼が求めたのは、悪い人たちと一緒に正しい人を滅ぼしてしまって良いのかという理屈で、正しい人の助けと神様の正義を求めただけです。この執り成しの結果、主は言われた。「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう」。アブラハムの執り成しは、結果的に悪い人たちをも救いに招き入れる願いになりました。

 

アブラハムは、正しい人が五十人いるか心配になって、十人しかいなくても、その正しい者たちのために滅ぼさないかという所まで問いかけて終わります。でもそれでは解決しません。九人だったら、八人だったら…、一人だったら…。正しい者と悪い者を一緒くたに滅ぼしはしないという筋道で考えるなら、一人いれば助かるでしょう。でも、神様の御前に正しい人がいますか? 私も含めて私たちの内に一人もいないでしょう。そうしたら、私たちはみんな滅ぼされることになりますが、それは不正義にはなりません。

しかし、たったお一人おられます。言うまでもない、イエス・キリストです。創世記のこの個所の論理からすると、まず、このお一人を他の者と一緒に滅ぼしてはいけませんねと祈ることは構わない。それで、このお一人、イエス・キリストの故に、神様は他の悪人たちを一緒に滅ぼすことはなさらない、ということにはなる。

但し、そのお一人であられる主イエスは、ただご自分の故に他のものが滅びを免れたというのではない。そのお一人の主イエスが十字架で他の全ての人たちの罪を負い、裁きを担って下さったからこそ、私たちは罪贖われて罪赦されたのです。

 

そして主イエスは祈られました。父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは自分が何をしているのか知らないのです (ルカ二三・二四)。主イエスは会堂で教え、福音を宣べ伝え、病や患いを癒されました。主イエスは、罪を赦す権能をお持ちの方ですから「彼らの罪は赦された」と宣言出来るお方です。でも受難週のここでは、為されるままに裏切られ、捕えられ、言われるままに判決を受け十字架に付けられて行きました。そして罪の赦しの宣言は為さいませんでした。それ程までに、ここでは私たちと同じ人間の側に立たれたということです。罪を赦してもらうしかない人間、赦すことの出来ない人間の側に立とう…。しかしその人間にも出来る事はある。それは執り成しを祈る事です。それで赦す代わりに執り成しをなさった。私たちはこの祈りの言葉から、あなたたちも執り成しの祈りは出来るはずだ、と招かれていると思います。

 

書簡に戻りますと、死に至らない罪。私たちは、死に至らない罪を犯す人に対してもなかなか赦せない。ヨハネはその人のために神に願いなさいと命じています。そうすれば神はその人に命をお与えになります(一六節前半)。その人のために願います。加害者が赦されて更生に向けて立ち直っていく、それを良かったねと思える、そういう人になりたい。なるのは難しいと思いますが、願いだけは持っておきたいものです。

他方、死に至る罪があります。これについては、神に願うようにとは言いません(一六節後半)。「これ」とは何か、死に至る罪を犯す人のことだろうか。このような人については願わないということだろうか? そうではなく「これ」というのは死に至る罪そのもののことです。文法的に言えば「これ」は女性名詞です。男性名詞なら人を指すことになるでしょう。罪と同じ女性名詞です。だから死に至る罪については赦せない。聖霊を汚すような罪については願えとは言わない。罪について赦されるのではないと語ります。

実は、死に至らない罪についても同じです。願うのはその人のために願いなさい。罪そのものについては願わない。このことはどちらの罪についても明確です。この微妙な表現から、罪は憎んでも人は憎まず。これは成り立つと考えます。もっとも、罪そのものと罪を犯した人を区別しても、切り離すのは簡単なことでありません。実際にはその人が犯す罪ですから。だから事柄としてこの区別を弁えておくことが大事です。憎むべきは罪。しかしその人への赦しを乞うてもよい。そう弁えることが出来たら、罪は赦さないという筋を通しながら、人を赦す赦しに向かって生きることが出来るようになる。それが執り成しです。

イスカリオテのユダに、主イエスは赦さないと断言しておられるのか。主イエスを裏切ったという点についてはペトロも同じです。ペトロに対しては、私はあなたのために信仰が無くならないように祈った(ルカ二二・三二)と仰いました。もし再開のチャンスがあったら、ユダに対しても主イエスは同じように言われたのではないでしょうか。

 

終わりに、神の子の名を信じているあなた方に、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです(一三節)。書き送る、これを以前、教育すると読み替えてみました。ヨハネはこの手紙を書き送りながら、教会と教会の人たちに教育をしている。大事なことは罪や人を赦さないことではない。大事なことはあなた方が既に永遠の命を得ているということだ。本来なら自分もキリストを十字架に付けたような人間です。その自分が今は赦され、永遠の命を戴いている。この事実にしっかり立つならば、赦せない罪を犯す人についても祈ることが出来るようになる、とこの恵みの広がりの下にヨハネは招いています。

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