日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2020年10月4日 説教:森田恭一郎牧師

「取りなさい、私の体」

出エジプト記一九・三~八
ルカ  二四・二五~三五

一同集まりましてこのように礼拝をささげ得ます事を感謝します。今日は世界聖餐日です。この一か月半余り、礼拝をささげるために共に集うことが出来ませんでした。その大きな欠けを少しでも補うべく、説教原稿をお手元にお届けし、画像と音声で礼拝の様子を配信しましたが、特に聖餐式は、実際に集い、パンと杯を戴くことなしには、その恵みに与ることが出来ないことを、皆様、痛切に思わされたに違いありません。

そこで今日は改めて、聖餐を共にする恵みを、

説教において確認し、実際に味わいたく願います。

 

主イエスは、十字架に付けられる前夜、オリーヴ山で祈られる時には弟子たちから距離を置いて一人で祈られましたが、最後の過ぎ越しの食事での晩餐は、弟子たち、ルカ福音書二二章の記事では使徒たちと一緒でした。時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった(ルカ二二・一四~)。たまたま一緒だったのではありません。イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなた方と共にこの過越の食事をしたいと、私は切に願っていた。主イエスの切なる願いだから、聖餐式は共に集って執り行わねばなりません。そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。「これを取り、互いに回して飲みなさい」。杯を手に取りなさい、飲みなさいとお命じになります。パンも弟子たちに与えて言われました。「取りなさい」(マルコ一四・二二)。聖餐は信仰者に「取りなさい」と命ぜられていることです。

そしてパンと杯についてその意味をお話しになりました。「これは、あなた方のために与えられる私の身体である。私の記念としてこのように行いなさい」。食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなた方のために流される、私の血による新しい契約である」(ルカ二二・一九~)。

新しい契約。契約とは約束です。この契約は旧約来神様がイスラエルの民と結んできた契約です。

私は彼らの神となり、彼らは私の民となる(エレミヤ三一・三三)。また、イスラエルの民を、私の宝となる。祭司の王国、聖なる国民となる(出エジプト記一九・五)とも表現しています。この契約は旧約時代には、イスラエルの民に対して律法として記されておりました。でも新しい契約は、しかし、来るべき日に、私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。主イエス・キリストを信じる私たちに対して私たちの信仰の心に記されます。

 

さて、今日はルカ福音書二四章の記事を味わいます。主イエスがエルサレムで死人の中から甦られた日の記事です。二人の弟子たちがエマオに向かっています。敢えて言えば、十字架と復活の出来事が起こったというエルサレムに背を向けて、うつむき加減で足取りも重い。

実はこの弟子たち、つい四日前の最後の晩餐に同席していた…かもしれません。「これは私の身体、これは私の血による新しい契約」。この主の御言葉を聴き、この主イエスのお蔭で私たちは神様の民とされているし、救い主キリストとして主イエスがいて下さると確信したに違いない。ところが、主イエスは十字架で死んでしまわれた。大きな喪失体験がこの二人の弟子たちの心を重くしていた。神様は私たちの神様でなかったのか。見捨ててしまわれたのか。主イエスと共に実現する契約は無くなってしまったのか。

私たちもこの喪失体験、聖餐式のパンを手に取り食することが出来ない。杯から飲むことが出来ない。この度、主イエスの喪失を強いられたのではないでしょうか。あるいは他にも、理由は何であれ、教会に集わなくなり聖餐に与らない。気付いてみれば、神様の約束と主ご自身を喪失していた、ということもあるのではないでしょうか。

 

そのような彼らに、いや、このような私たちにも、主イエス自身が近づいてきて一緒に歩き始めておられる。であるのにこの方のことを、主イエスだと気付かず、主イエスへの応答にならない。そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったこと全てを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」。そして、モーセと全ての預言者から始めて、聖書全体に亘り、御自分について書かれていることを説明された(ルカ二四・二五~)。その説明を聞きながら、弟子たちは神様が結んで下さった契約を思い起こし、三日前に十字架で亡くなられた、否、今朝、甦られた主イエスにおいて、この契約が実現している事実が段々胸に迫ってきました。

 

一行は目指す村に近づいたが、イエスは尚も先へ行こうとされる様子だった(ルカ二四・二八~)。弟子たちは「そうですか。今日は良いお話有難うございました。ここでお別れ、さようなら」という気持ちにはなりませんでした。二人が、「一緒にお泊まり下さい。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので。もっとお話を聞きたかった。神様が本当に私たちの神様となって下さったあの契約。その信仰の確信が心に満ちて来た。無理に引き止めました。

それで、イエスは共に泊まるため家に入られた。弟子が引き止め共に泊まる家へとお招きしたのに、いつしか、主イエスがホストとなって、主イエスが食卓を整え、弟子たちは従う者になっていました。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。そして不思議なことが起こりました。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。主イエスのお姿は見えなくなっても、この聖餐式において、確かに主イエスが私たちに対して共にいることを切に願い、お招き下さり、共に食卓の交わりへと招いておられる。私たちの信仰は弱い。御言葉を聴くだけでは、主イエスが共におられること、自分の心が燃えていることさえ自覚しないで主から離れる。でも主イエスが弱い私たちに合わせて聖餐を制定し招き、私たちは聖餐において約束通り主が共にいて下さることを確信します。いつしか二人の弟子たちの顔はうつむいてはいなかった。共に感謝しつつ、天を見上げることが出来るようになっていました。

この時以来、聖餐式は、失った契約が嘘ではない確かだという保証の場、また主イエスを失う喪失体験から、神の御子主イエス・キリストが共におられるという獲得体験への場となりました。

 

二人は、「道で話しておられる時、また聖書を説明して下さった時、私たちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻って行きます。顔を上げて、足取りも確かに、十字架と復活の救いの出来事が起こったエルサレムに向かいます。

エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いて下さったときにイエスだと分かった次第を話した。ここで再会して顔を合わせたこの人たちは、この時何をしたのか。復活の主イエスにお目にかかったことを語り合っている、証言し合っている。この信仰の仲間たち同士で、信仰の確信を分かち合っている。あの最後の晩餐、オリーヴ山での祈りの後、みんな主イエスを見捨てて逃げ去って散り散りになった弟子たちが、ここではキリストと一つに、そして弟子たち同士が一つの交わりになっていました。

因みに相互牧会。ただ親しく仲良くすることではありません。それは祭司の王国の祭司として私たち自身が執成し合うことです。信仰の恵みへと執り成し、聖餐において与えられる恵みを分かち合い共有しあうことが、牧会の中心にあります。

 

一昨日、葬儀を執り行いました。この方は、清教学園中学校に入学して聖書に親しみ、主イエスを知るようになり、教会に繋がり、高三の時、主イエスを信じて洗礼を受けられました。その後は、諸事情の故、教会から離れ、親しい友人たちとご家庭では子宝に恵まれましたが、主イエスを喪失しておりました。でも「そのままここでお別れ、さようなら」にならずに、晩年になって教会に帰って来られ、礼拝にお見えになり先月の聖餐式の恵みに与られました。主イエスが放蕩息子の譬え話でこう言われたことを思い起こします。「食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」。そして祝宴を始めた(ルカ一五・二三~)。キリストがお招き下さり、それに信仰を持って応答する私たちも、今日、この聖餐の祝宴に招かれています。

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