日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2024年2月4日 説教:森田恭一郎牧師

「この自由を得させるために」

イザヤ六一・一
ガラテヤ五・一

救われるとはどういうことですか、と問われたらどのように答えるでしょか。今日のガラテヤ書は「自由を得ること」と語ります。少し意外に感じるかもしれません。キリストの十字架によって罪が贖われることとか、罪が赦されることとか、神様の御前に義とされることとか、永遠の命とか、信仰と希望を与えられることとか、天国に行けることとか……、色々思います。

時折り申し上げることですが「恵みによって救われ、恵みを信仰を通して受けとめ、信仰によって生きる」と表現出来ます。救いには三つの側面がある。いずれも聖霊の執成しあってのことです。

救われるのはまず、キリストの側の救いの御業があるからです。この救いは全ての人に向けられています。救いの確かさはキリストの御業によって確立しています。それは自分の善行や修行の有る無しによって左右されたり揺らぐものではない。人間の側の善し悪しに関係なく与えられるもので、それを恵みと言います。私たちは自分の善行によって救いを勝ち取るのではなく恵みによって救われます。

そして救いを自覚する。その恵みが自分にも注がれていると自覚します。それは信仰を通してです。キリストの十字架のお蔭で私の罪は贖われていると、「向こう側の」神さまの恵みが 「こちら側の」自分に届いてくるのは信仰を通してです。 向こう側の確かな救いを、こちら側で受け取り、信仰の告白をし洗礼を受けた人を信仰者と言う訳です。そうやって信仰者の私たちは救いを自覚し、確信して希望を与えられています。それで、神を愛し、礼拝をささげます。

それから、救いは天国に行けるという将来のことだけでなく、この地上の毎日の生活を支えます。信仰によって生きることです。苦しい悲しい、辛い中にあっても、流されずへこたれず希望を以て自分を愛せるのは信仰によって生きるからです。そしてまた隣人を愛するのも信仰によって生きるからです。

 

自由を得る。自由を確立して下さるのはキリストです。パウロは、この自由を得させるために、キリストは私たちを自由の身にして下さったのです、とキリストの御業を語ります。みんな自由の身にして戴いている。それを自覚し自由を私たちの側に得させるのは信仰を通してです。更に、自由を得て生きるのは信仰によってです。

自由も恵みによって自由の身が与えられ、それを信仰を通して受け取り、信仰によって自由に生きる。自由もまた救いと同様に三つの側面がある訳ですが、ただ、救いを自由と表現する時には、もっぱら、信仰によって自由に生きる点に重きを置いて語っていると言えるでしょう。

 

そして自由に生きることには、大きく二つの側面があります。一つ目は、何々からの自由です。それは自分を縛っていることから自由に生きることでもあります。捕らわれ人には自由を (イザヤ六一・一)とイザヤが語る通りです。二つ目は、何々への自由です。この歴史の中に命与えられて、自分を愛し、隣人を愛し、神様からの使命に生きることです。

ガラテヤ書五章一節は、何々からの自由を念頭に語っている表現です。私たちは恵みによって自由の身とされ、それを信仰を通して受け取り自覚したのだから、だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度と繋がれてはなりません。

奴隷の軛、ここでは律法に縛られている姿です。私たちも律法ではなくても、様々な事に犬の首輪のように軛に繋がれています。日本の風習・因習のことを先週語りました。そこから自由になって生きようということです。

 

しっかりしなさいとパウロは私たちを鼓舞しています。でもこれは、ただ頑張れと鼓舞しているのではなくて、直訳は「立ちなさい」です。口語訳では堅く立って、聖書教会共同訳ではしっかりと立ってです。しっかりと立つとはどういうことか。自分が踏ん張って立つということではないようです。「立つ瀬が無い」という言い方がありますが、立場がない、立つ場所がないということですが、問題はどこに立つかです。

そこでまず、しっかり立っていない例を福音書から紹介します。マルコ福音書三章三一節~(六六頁)

です。ここに外に立つとあります。これではしっかりと立っていない。主イエスはこう言われました。「私の母、私の兄弟とは誰か」とお問いになって、周りに座っている人々を見回して言われました。「見なさい。ここに私の母、私の兄弟がいる」。彼らは、主イエスの周りに座っている。座っていますが、しっかり立っている訳です。外に立っているのではただ立っているだけ。

主イエスの周りにということをパウロはこう言い換えています。信仰に基づいてしっかり立ちなさい(Ⅰコリント一六・一三)。これは、恵みを届ける信仰の内に包まれて立つということです。イザヤも打ち砕かれた心を包み(イザヤ六一・一) と語りました。あるいは 主にしっかりと結ばれて(一テサロニケ三・八)。これは主にあって立つが直訳です。主の中に立つ、包まれて立つ訳です。またしっかり立って、私たちが説教や手紙で伝えた教えを固く守り続けなさい(Ⅱテサロニケ三・一五)、などです。

これらのことから分かることは、礼拝の外にいたのではしっかりと立つことにならないということです。自分が踏ん張ることではない。礼拝をささげないまま信仰をしっかり保っていると思っても、それでは勘違いしています。たとえ自分は弱々しく思えても主イエスの周りに座っている。そのようにしてこそ、しっかりと立つことになる。この礼拝を献げることの中から、恵みに包まれる所で、自由の身にされている訳です。

 

先週も申し上げましたが、教会は歴史の中にあって礼拝をささげるキリストの体です。それが教会の本質です。時代を超えて変えてはならない本質、福音の恵みを明らかにする礼拝の事柄と、今までこうやって来たからという風習、習慣に繋がれずに自由にされて、時代に合わせて新しい事にチャレンジしていく柔軟さがあります。変えてはならない礼拝に基づきながら、時代ごとに与えられる使命にチャレンジしていく自由があります。教会創立一二〇周年は、礼拝の本質と生きる自由さ、それを見極める営みであります。

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