日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2023年11月12日 説教:森田恭一郎牧師

「この宝、土の器に」

詩編  二三・三~五
Ⅱコリント四・七~一五

今日の説教題は「この宝、土の器に」としました。今日の聖書では、この宝とはイエス・キリストの命のこと、土の器とは私たち一人ひとりの人間のことです。ですからイエス・キリストの命の宝が私たち一人ひとりの土の器に納められているということを言っています。

土の器というと、どのようなものを思い浮かべますか。ここに木のお椀を持ってきました。木の器です。これでお味噌汁をいただきます。それから、ご飯をよそうご飯茶碗。それから、これはお湯を入れるので湯飲み茶碗。そしてこれはお茶をたててお茶を入れる茶碗です。お茶茶碗とは言いません。何故かというと、もともとお茶をいただくための器を「茶」碗という訳だからですね。これらの茶碗があれば、それを用いてご飯であれお茶であれ、おいしく戴くことが出来ます。

それから器という感じはしないかもしれませんが、ここに笛を持ってきました。これも謂わば器です。笛の器です。以前にもお話ししたことがありますが、この笛、笛としては完成品です。でも笛が器として出来上がっていても、ただここに笛がある、というだけでは意味がありません……。この笛の器に、息を吹き入れてはじめて音が出る。あっ、笛だ、と分かります。笛の器に息を吹き込むと音が出る。息は笛の器にとって器を活かす宝です。息を吹き入れると笛の器が用いられて、音が響き出てくる。これが上手に用いられると曲を奏でます。笛の器が用いられて音楽の道具になり、曲が奏でられる。

お茶の茶碗も同じです。ただ茶碗があっても、それだけでは本来の意味はありません。お茶をたててお茶を入れてこそ茶碗の道具として役に立って、お茶をおいしく戴くことが出来ます。先日、婦人会で加龍哲朗さんがお茶をたてて下さいました。婦人会の茶会でお茶を戴く。そのために茶碗を用います。茶碗は茶会の道具です。同じお茶をいただくのでも、ご飯茶碗よりも、お茶用の茶碗でいただくとおいしく感じるから不思議です。この茶碗が茶碗らしくお茶会の道具として上手に用いられた訳です。器が道具になります。

 

それでは、土の器。私たちのことです。そこにイエス・キリストの命の宝を入れた自分になります。聖書はこう語っています。このような宝を土の器に納めています(Ⅱコリント四・七)と。この宝をこの自分という器に納めると神様の力に支えられるようになります。この並外れて偉大な力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかになるために。私たちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。私たちがこういう簡単には壊れない器になるんですね。聖霊なる神様が私たち、土の器を用いて下さるとき、壊れない。

でも私たちは宝を納めてもやはり土の器。「土」の器です。だから壊れやすい。壊れた湯呑み茶碗にお湯を注いでもこぼれるだけです。ところが…、たとえ私たちが土の器であっても、イエス・キリストの命の宝が注がれると、こぼれない。今日の詩編の言葉に、こうあります。私の頭に香油を注ぎ、私の杯を溢れさせて下さる(詩編二三・五)。壊れた器からこぼれるのではなくて、それどころか、溢れさせて下さる。不思議です。

パウロは同じ事を、こう言います。私たちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。私たちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。こうして、私たちの内には死が働き、あなた方の内には命が働いていることになります。私たちはいつか死んでしまうような弱い者です。土の器です。でもキリストの命の宝が納められて、それが溢れ出て来る。溢れ出てきて、今度は他の人たちに注がれ他の人たちが潤おうようになります。

そして主イエスを復活させた神が、イエスと共に私たちをも復活させ、あなた方と一緒に御前に立たせてくださると、私たちは知っています。

全てこれらのことは、あながたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。

私たち、土の器の私たち、そこにイエス・キリストの命が注がれて、こぼれそうになってもこぼれない。むしろ溢れ出てきて、他の人たちと一緒にキリストの御前に立つようにされる。その時にはみんなで「神様、有り難う」と神様に栄光を帰すようになります。

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