申命記 五・七
コロサイ一・一三-一五
本日は十戒の第二戒「あなたはいかなる像も造ってはならない」。その理由は、肉となられて、その姿を人が見ることが出来るようになったイエス・キリストを私たちは知っているからです。御子は、見えない神の姿であり…(一五節)。驚くべき言葉です。父なる神様が、見えるお姿としてご自身のお姿をこの世にお現し
2563になりました。この生けるキリストのお姿に集中しなさい。それ故に他にいかなる像も造ってはならない。この結論を踏まえた上で、幾つか考えて行きたいと思います。
十戒は、命令するだけの規則ではありません。十戒に先立つその前文、顕現句、神様の自己紹介の文章との関わりの中で読むことが大切でしたね。その顕現句は、私は主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。そしてこの顕現句との繋がり方の捉え方によって第一戒と第二戒の区分が異なってきます。
第二戒と顕現句との繋がり方ですが、大きく分けて二つに考えられます。一つは、私、神様が導き出したのだ。だから、それ以外の神々のいかなる像も造ってはならないという繋がり方です。その場合には、第一戒と基本的に同じことを繰り返していることになります。私が導き出したのだから、私を措いて他に神があってはならないし、私を措いて他に像を造ってはならない。この理解では、第一戒と第二戒は、基本的に同じことを言っているので、第二戒を第一戒に含めて、以下ずらして数えます。そして第十戒を二つに分けます。カトリック教会やルター派教会はこの立場を取ります。それで、他の神々の像は造ってはならない。でもキリストは真の神なのだから偶像ではないと、十字架にかけられたキリスト像がある訳です。
因みに、当時、周囲の国々には様々な偶像がありました。日本社会も仏像はじめ沢山あります。更に偶像は、いわゆる偶像に限りません。受験期に多くの人たちが、神社に行って合格祈願をしてお守りを買ってきたりします。お守りが神様になってしまう。あるいはお守りのような物が無くても、星占いだとか手相だとか姓名判断とか、そういうのも沢山あって、偶像になり得ます。更に、自分が心寄せて大事にしているものが自分の神様であって、それが皆偶像になっていきます。お金が大事だとこれを第一に思ったら、お金が偶像になる。社会的地位も偶像になる。受験生だったら偏差値が偶像になる。会社員だったら営業のノルマが偶像になる…。こういうものを造らず自由であれ。こういうものは真の神ではないからです。
もう一つの理解は、私は生きている神だからこそ導き出したのだ。歴史の中であなたをエジプトから救い出したのは、生きて歴史の中に働いているこの私。だからこの私を死せる刻んだ像にしてはならない。こういう理解です。たとえ真の神の像であっても像でしかありません。キリスト像もいけない。キリストは生ける神だからです。見える像に生ける神様を押し込めてはいけない。出エジプト記に、金の子牛を造る出来事がありますが、あれは子牛が神になったのではない。真の神の像を子牛に表現して造ったと言える。
第二戒は第一戒とは区別されます。改革派教会はこの立場をとり、これを二番目の戒めとして数えています。私たちも同じように受け止めます。河内長野教会は、キリストの像どころか、十字架さえも礼拝堂から取り除けました。
以前ある方がこう言われました。御言葉を本当に聴くことが出来た時には十字架さえも邪魔になる。以前おりました教会の礼拝堂には十字架が掲げられ、像はなかったのですが、それでもこう言われたのです。説教者としては本当に御言葉を語らねばならないと責任の重さを思います。本当に御言葉が語られ、本当に御言葉を聴くことに於いて、私たちは神様と出会い礼拝をささげます。
いかなる像も造ってはならない。キリスト像も造らない。突き詰めて行くと十字架さえも要らない。今日申し上げたい二番目は、ならば神を何か哲学の理性で考えたり観念的に捉えて、精神化すればいいのか、もちろんそうではない。主イエスは仰いました。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。何故なら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である(ヨハネ四・二三~)。これを神は精神であると言い換えても良いのか? 霊という言葉、スピリチュアルなんてカタカナで表現されますが他の言葉で言い替えられない。精神、観念、心などと言うと何かずれてしまいます。霊は霊としか言いようがない。神は霊である。
また、信仰も心の問題と言ってしまうと何か違います。私たちは信仰によって生きているからです。肉体を以て生き、社会関係の中に生き、食べ物もお金も必要です。でも食べ方、お金の稼ぎ方や使い方に信仰が表れる。信仰は単なる心の問題ではない。主イエスは続けて仰いました。神は霊である。だから霊と真理とを以て礼拝しなければならない。単に心で礼拝するのではありません。
第二戒は、礼拝の在り方を語っていると言ってもいい。礼拝は生きた神が臨在なさる。その神の臨在に触れ、神と出会う。私を救って下さった神にこそ、礼拝をささげる。それなのに人間が造った像の中に神がいらっしゃると思って礼拝をささげるのか。こちらのキリスト像とあちらのキリスト像、きっと同じではありません。むしろ、キリストがその像のキリストになってしまいます。都合が悪ければ取り換えることも出来ます。人間の方がキリストより上になってしまう。
私は求道中の頃、生きたキリストと出会うことが大事だと言われて、なかなか理解できませんでした。自分としては聖書を学んで、少しでも品行方正な善い人間になれればそれでいい、自分の心が清められる自分の信心を考えていた。その限りでは、神社でもお寺でも、教会でも、どこでも構わない。信じて仰ぐべきキリストがおられる信仰なんて考えていなかった。でも繰り返し説教を聴きながら、このキリストが十字架にかかり私を救って下った、それは大変なことだったのだ。そして礼拝の時に御言葉と共に、また聖餐式に聖霊の導きの下にキリストがおられる、このキリストとの出会いが礼拝の命だ。少しずつ、解って来たかなと思えるようになりました。その時には像は要りません。あったら却って邪魔になりますね。
自分の信仰の中に神様を閉じ込めるならそれは偶像。神様も恵みも人間が考える以上に大きい。天が地を超えて高いように慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。東が西から遠い程、私たちの背きの罪を遠ざけて下さる(詩編一〇三・一一-一二)。人は何十年信仰生活を送り立派な信仰であっても神様を捉えきることは出来ない。ある方が臨終に近い時、こう言われました。キリストをもっと知りたい。この方は立派な信仰者だ、と周囲の人たちから見れば心から思えるような方だったのですが、それでも、真の神も恵みもずっと大きい、それを知りたいと。その都度語られる御言葉を通して、大きな神様に出会ってきた。人生の終わりに更にそれを待ち望んでいる。第二戒はこれを語る。
第三番目に、口語訳聖書の言葉を思い起こして気が付くことがあります。あなたは自分のために刻んだ像を造ってはならない。「自分のために」とあります。真の神を礼拝するにしても、自分のために神を利用しているのだったら、刻んだ像がなくても偶像礼拝です。今日、教会学校でヨブ記を読みました。サタンが問いかけます。ヨブが利益もないのに神を敬うでしょうか。ヨブが神様を礼拝するのは、あなたが沢山のご利益を与えているからですよ、とサタンが言う。ヨブはどうしたかというと、主は与え、主は奪う。ご利益が一切取り去られた中で、主の御名はほめたたえられよと告白しました…。私たちは恵みを戴いていい。ならば恵みとご利益は何が異なるのか。恵みは感謝すべきこと。恵みが目的となりそれを得るために礼拝するならご利益になるでしょう。
キリストはご自身を十字架にささげてまで、私たちの罪を贖い、私たちの罪を赦し、私たちを神の子たちにして下さり恵みを与えて下さいました。私たちは、今日に至るまで生きておられる方としてキリストのお姿をイメージしながら感謝の礼拝をささげます。それは偶像ではなく、唯一正当な神のお姿です。先程のコロサイ書の御子は、見えない神の姿でありの「姿」は英語ではイメージと訳されることが多いようです。偶像ではないイメージ。十字架にかかられたキリストであり、甦られたキリストであり、天に挙げられ、神の右に座して執成しておられるキリストであり、終末の時には全ての全てになられるキリストです。
そのキリストに、今日も御言葉による新たなイメージを以て出会います。私たちの霊とまことではなく、キリストの出来事、キリストの霊と真理を以て礼拝をささげます。生けるキリストに出会い礼拝をささげます。今日も、これからも河内長野教会の礼拝が生ける礼拝でありますように。