日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2023年11月19日 説教:森田恭一郎牧師

「約束による恵みの成就」

創世記一五・一二~一七
ガラテヤ三・一五~二〇

ガラテヤ書の前回の説教で、福音理解のキャッチフレーズをこう紹介しました。全て聖霊の導きの下に人は、恵みによって救われ、その恵みを信仰を通して受け取り、信仰によって生きる。そして信仰によって生きることの対極にあるのは、律法によって生きることです。それをパウロは旧約聖書から引用して 「律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」(ガラテヤ三・一二)と語りました。ひっくり返して言いますと、律法を守れない者は、その定めによって死んでしまう、ということです。

先日の新聞の相談欄に母親の相談が載っていました。三十代の娘が自己肯定感が低く 「結婚もせず、何の役にも立っていないから 早く死にたい」。 体調の辛さもあって「生きることがしんどい」と言う。前向きに楽しく生きて欲しいので親としてどうアドバイスしたらいいか、という相談でした。それに対する返答は、母親をはじめ周囲の人が明るく前向きな完璧な人たちばかりだと、自分は駄目だと落ち込んでしまう。だから娘さんの特質を認め、用事を頼んで役立っていると思えるようにし、そして愛してあげて下さい、というような返答でした。

この相談内容のポイントは、この娘さんが 「何の役にも立っていない」 と思ってしまう点です。これもひっくり返して言いますと、役に立つ人になりなさい。こう思ってしまってこれが出来ないと、生きることがしんどくて早く死にたい、ということになる。これは、神と隣人に役立つ人になれと定める律法を守れない人は、その定めによって死んでしまう、この律法の言葉そのままではないですか。この呪縛から解き放たれないと、本当に生き生きと生きることは出来ない。ですから、この解決のために大事なことは、あなたも役に立っていますよと思わせることではない。それでは役立つ人であれということから自由ではない。また仮に百%、役立つ人間になれたとしても、それではキリストの恵みを必要としない人間になってしまう。そうではなくて、そのままでキリストの恵みの故に自己肯定していいということです。隣人を愛して役立つ人になる以前に、愛されている自分に気付き、愛されている自分を肯定することですね。役立つというのはその後に位置づけられる課題です。

律法というと、何か私たちとには縁どいもの、関係のないもののように感じてしまいますが、普通の言葉で言うと、役に立つ立派な人になりなさい、という価値観が律法と同じです。学校の生徒で言えば成績の良い立派な生徒でありなさい、会社員で言えば営業成績をあげる立派な社員でありなさい、誰であれ、賜物を活かして役立つことが出来るプライドを以て生きる立派な人でありなさい。今日の社会においてこの価値観から自由な人はいません。この世の価値観が事実上律法になっています。そして役立たないときには自分に対してであれ、他者に対してであれ、役に立たないような奴は……と人を見下げてしまう。その思いは、誰もが持っている。新聞の相談欄の相談事にもなる。これが社会の価値観です。

いつだったか、福祉施設で職員が障害者を殺害する事件が起こりました。世話を焼かせるばかりで役に立たない人間は死んだ方がましだ、とそのようなことを容疑者は言っていました。もちろん、そのような優生思想みたいな発想、価値観は間違いだと言われます。その通りです。けれども、まさか殺人事件は起こしたりはしませんが、心のどこかにあの容疑者と同じような思いを私たちも引きずっていませんか。自分が年を重ねて身体が不自由になり、お世話を受けるばかりになったとしたら、役に立つどころか迷惑ばかりかけて、早く死んだ方がましだと考えたりしませんか。

だからこそ、神がキリストにあって一人ひとりを愛して下さっている、この福音に包まれなければならない。私たちは、人はどれだけ役に立つか、その価値によって人を計る者ではなく、神が愛したもうという、その人に与えられている尊厳によって、自己肯定、他者肯定していくようにしなければなりません。

 

今日の聖書は、人間の尊厳の根拠は揺らがないことを語ります。それは神による約束とその成就です。それを説明するのにまず、人の作った遺言(ガラテヤ三・一五) を例として挙げています。遺言はいわば、亡くなっていく被相続人の約束です。それは後から誰も無効にしたり、それに追加したりは出来ません。約束が確かなのです。そして亡くなった後には遺言通りに遺産相続します。遺言の約束が実現します。

神による約束とその成就を説明するのに次に出てくるのが、神によって予め有効なものと定められた契約(ガラテヤ三・一七)です。人間が作った遺言の約束でも必ず実現するならば、神様がお定めになった契約はなおさら成就しないはずはない。そして、神様がアブラハムに対して約束なさった契約が後から出来た律法によって反故にされることはない、ということです。

創世記は、神様が契約の儀式を踏んでアブラハムと契約した様子を記しています。動物を持ってきて真っ二つに切り裂き、夫々を互いに向かい合わせて置いた(創世記一五・一〇)。これは契約を破ったら、この動物のように真っ二つにされるという契約のセレモニーです。私たちも、嘘ついたら針千本飲ます(♪)、と言ったりしますね。

神様はアブラハムを契約の相手として呼び出して下さいました。口語訳聖書で、時に主はアブラムに言われた(創世記一二・一) という突然の一方的なあの時以来、神様はアブラハムを呼び出して下さり契約の相手として下さいました。それはアブラハムが律法を守る役立つ人であったから、などというアブラハムの側に呼び出される理由はありません。契約の時にも、彼は深い眠りに襲われ、恐ろしい大いなる暗黒が臨んだ(創世記一五・一二)。アブラハムの側に何の主体性もない。ただ一方的に神様の御業の中に招かれ包まれています。そして続けて契約の内容を記します。アブラハムの子孫がエジプトで寄留者となり四百年の間奴隷として仕えるが、その後脱出して、この場所に戻ってくる。あなたの子孫に土地を与える。神様はこの約束を契約として結んで下さった。このエジプト脱出後に与えられたのが十戒の律法です。

 

ガラテヤ書に戻りますと、この約束と律法の順序を踏まえてパウロは言う訳です。繰り返しになりますが、神によって予め有効なものと定められた契約を、それから四百三十年後にできた律法が無効にして、その約束を反故にすることはないということです(ガラテヤ三・一七)。それで、神は、約束によってアブラハムにその恵みをお与えになったのです(ガラテヤ三・一八)。恵みの中に招かれ包まれている。約束は確かです。

そしてパウロがガラテヤ書で語るのは、アブラハムに与えられた約束が実現成就するのは、キリストの到来の時だということです。キリストの到来以来、私たちも本当は、キリストの恵みの中に招かれ包まれている。もう単なる約束ではない。私たちが恵みを受けているのはもう既に実現している。キリストの十字架によって、キリストが罪を贖い、私たちは罪人なのに私たちを義とし、救い、恵みの中に招き入れて下さった。私たちといえば、十字架のこの恵みのために何か役立つお手伝いをしたわけではない。だからキリストの恵みはこちら側の善し悪し、役立つ度合いによって左右されない、揺らがない。私たちは恵みの出来事に当初から気付いていません。だから役に立っていないことで自己否定してしまいかねない。でもそれでも恵みの中に招かれ包まれている。御言葉によって気付いた人は、そのことを信じて洗礼を受けます。

先週の召天者記念礼拝で、恵みの溢れる土の器の話をしました。キリストの恵みの中に招かれ包まれていることを更に恵みが「注がれている」と言っても良い。そのことを信仰を通して知ると、その後は、信仰によって生きる歩みになっていきます。それは律法に縛られての歩みではありません。恵み注がれての自ずと溢れ出る歩みです。私たちの日毎の歩みは、未完成ではありますが、恵みが溢れ出ての信仰によって生きる、この方向性のある歩みであるに違いありません。

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