日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2023年7月16日 説教:森田恭一郎牧師

「苦難の日、栄光 神に在れ」

イザヤ四二・一二、四三・二一
ルカ  一八・三五~四三

本日は教会創立記念の礼拝をささげます。

A・D・ヘール宣教師が大阪府知事宛に「長野講義所設立申請書」を提出したのが一九〇五年七月一八日。この日を創立記念日と定めています。以来、今年は一一八周年です。宣教師たちがイエス・キリストからの世界伝道のご委託に応えて、よくぞ、日本まで来て下さった。日本のミッション・スクール、特に女子教育は宣教師の働きなしには語れません。A・D・ヘール宣教師も現在の大阪女学院を創立しました。それだけでなくご兄弟で関西、紀州から三重にかけて伝道の営みを続け、私たち河内長野教会もA・D・ヘール宣教師の働きがあってこそであったと感謝です。

今年は特に、長老会は一つの大切なことを認識致しました。当教会の歴史を「主のご委託に応え、地域の信頼に応えてキリストの恵の福音を伝える営み」と捉える認識です。教会として、世界伝道の主イエス・キリストのご委託があることは言うまでもないことですが、歴史の関わりの中で、当教会は地域の信頼があってこそ「宣教・教育・奉仕」の営みを、保育園、幼稚園、中学、高校の事業をも生み出しながら、展開してくることが出来ました。この地域には、キリシタンの時代から、キリスト教に対する信頼を抱いている地域です。途中、時の為政者によって迫害弾圧を受けて歴史からは消えたように見えながら、キリスト教に対する信頼は消えていなかった。それでA・D・ヘール宣教師の営みも受け入れられたのだということです。それで、教会はその信頼に応える営みを続けます。

 

さて、今日は招詞に詩編を選びました。告白を神への生けにえとして献げ、いと高き神に満願の献げ物をせよ。それから私を呼ぶが良い。苦難の日、私はお前を救おう(詩編五〇・一四~一五)。この聖句は、焼き尽くす献げ物よりも神様への告白を献げなさいと真の礼拝へと招き、そして苦難の日「私を呼ぶが良い」と私たち自身を主に向けるようにと信仰を支える詩編です。

苦難の日。先週の週報の予告に載せる段階では、宣教師や信仰の先達の苦難や困難、また私たちの各々の人生における苦難を思い、この聖句を選びました。その後、落雷があり、これからしばらくエレベーターが動かなくなり、階段をご利用しにくい方々の事を思うと、今は思いがけない教会の苦難の日を迎えることになってしまいました。長老会として、事前に予防できるような処置などをとっていなかったことを大変申し訳なく、皆様にお詫び申し上げます。 詩編の聖句に促されて、改めて主の御名を呼びまつります。主よ、教会が一つとなって礼拝をささげていくことが出来るようにお支え下さい。また主よ、人的被害や火災にならずに守られましたこと感謝します。

 

この詩編は、告白を献げること、苦難の日に主の名を呼んで良いこと、続けて「そのことによって、お前は私の栄光を輝かすであろう」と語ります。もとより私たち自身は主の栄光を輝かすことなど出来る者ではありません。であるのに、私たちの罪と弱さの中で主により頼む教会の礼拝の姿勢、私たちの信仰の姿が、主の栄光を輝かすことになるのだ、と言ってくれています。

私たちが河内長野教会の理念として掲げているのは「栄光、神に在れ」ですが、それは何か立派な行いをすることによって栄光を神様に帰するということでは必ずしもなくて、罪を告白すること、苦難の日に「助けて下さい」と神様を呼ぶことです。教会の礼拝のこの姿勢、私たちの信仰の姿が、主の栄光を輝かすことになる。このことを確認していくことが、河内長野教会の創立記念の礼拝をささげる意義であります。

「栄光、神に在れ」。この言葉に促されて本日は旧約聖書イザヤ書から聖句を選びました。主に栄光を帰し、主の栄誉を島々に告げ知らせよ (イザヤ四二・一四)。栄光と栄誉、厳密に区別する必要はないですが、この箇所から敢えて言いますと、主の栄光は神様に帰し、主の栄誉は人々に告げる、ということではないでしょうか。そしてイザヤ書からもう一箇所、神様のお言葉です。私はこの民を私のために造った。彼らは私の栄誉を語らねばならない(イザヤ四三・二一)。人々に対して主の栄誉を語る私たちの務めが、神様の栄光のためになるということです。ここでも、主の栄光は神様に帰し、主の栄誉は人々に告げる訳です。

 

神に栄光を帰し、主の栄誉を告げることについて福音書からみ言葉を味わいたいと思います。それは主イエスが盲人を癒された記事です(ルカ一八・三五~)です。

イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。群衆が通って行くのを耳にして「これは、一体何事ですか」と尋ねた。「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、彼は「ダビデの子イエスよ、私を憐れんで下さい」と叫んだ。ここで彼は、彼の悩みの日に主イエスを呼んだ。いや、叫んだ。それで先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、「ダビデの子よ、私を憐れんで下さい」と叫び続けた。主イエスが応えて下さいました。イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。叱りつけて黙らせようとした人々が一転、主イエスに用いられて、主イエスの所へ招き連れていく人々に変えられます。これが教会の姿だと言ってもいいでしょう。

それで彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。「何をして欲しいのか」。盲人は「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。ここまで彼がしているのは、彼の悩みの日、苦難の日に主イエスに叫んだ、救いを求めた、それだけです。そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」。私たちも主イエスから「あなたの信仰があなたを救った」と言って戴けたら嬉しい限りです。この盲人の信仰とは何か。主なる神、救い主を見たい、お会いしたいということです。この信仰を主イエスが喜ばれた。盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。神をほめたたえる。これは彼が、栄光を神に帰す礼拝の営みです。

そして見えるようになって「良かった、見えるようになった」とどこかへ行ってしまわないで、主イエスに従う。主イエスに従ってついていく姿、これが、彼の主の栄誉を告げ知らせる営みになります。伝道と言ってもいいのですが、その本質は主イエスに従う自分の姿を現すことだけです。信仰によって生きている、そのことだけです。そしてこれを見た民衆は、こぞって神を賛美した。結果として伝道になっている。

先週発行しました教会便りの最終ページに。がん哲学外来カフェの営みが、地域の信頼に応える教会の働きの一つであるようにと記しました。カフェが行っているのは、神様を信じましょう、と伝道している訳ではありません。患者さんやご家族の思いに耳を傾けているだけです。ただ、一信仰者として耳を傾けている。それは患者さんにとって意味を持つに違いないのです。信仰を以て自分が受けとめられている不思議な安心感が生じます。そこには私たちの、主の栄誉を黙って告げる姿があることになります。

 

主の栄光は神様に帰し、主の栄誉は人々に告げる。私たちの教会は今、苦難、困難の日にあると言えるかもしれませんが、私たちの教会の礼拝の姿勢を大切に自覚しながら、私たちも神をほめたたえて生きる信仰の姿の中に導かれていきたいと願います。

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