日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2023年1月8日 説教:森田恭一郎牧師

「神さまに動かされたよ、私の心」

エズラ記一・一~五
マタイ一八・一九~二〇

今日は、「心を動かされた」(エズラ一・一、五)という言葉を味わいます。

皆さん、皆さんの心、ありますか(ハートの絵を掲げて)。どの辺りですか。やっぱり心臓の辺りかな。それでこの心、ここでじっとしたままここにある、だけでなくて動く。ワクワクすることがあったら体も動くし、そして心も動いているに違いありません。

動くだけではありません。もし心に色があったら、優しい気持ちの時には、こんな虹色のような優しい色になっているかな。形も何となく丸みを帯びるかな(その絵を見てもらいながら)。

それでは、喧嘩をしている時には、どんな色? 明るい色ではなくてこんな色?(黒っぽい絵を見てもらう)。形も何だか、トゲトゲしいですね。

そのように心は動くし、いわば色も形も変わる。

 

さて、今日のエズラ記には、心が動いた人が登場します。まず、ペルシャの王様、その名はキュロス。バビロニア帝国の次に新しくできた国です。王様になった第一年目(紀元前五三八年)。この王様はこう言いました。「天にいます神、主は、地上のすべての国を私に賜った」(エズラ一・二~)。バビロニアの国を滅ぼし、国々の王様になったのを神様のお陰だ、と神様に感謝しているようです。そして、前のバビロニアの軍隊が壊したユダのエルサレムの神殿について思いました、「この主がユダのエルサレムに御自分の神殿を建てることを私に命じられた」。直接神様から御声を聞いた訳ではないのでしょうけれども、自分の国の中にいるイスラエルの民を見ながら思った。神様はこの民が神様に礼拝をささげるために、主の神殿を建てさせようとお望みなのだと思った。

なぜ思ったのか。聖書は、ただ一つだけ理由を記します。主は、ペルシアの王キュロスの心を動かされた(エズラ一・一)。これが理由です。神様が王様の心を動かし、王様の心が呼び起こされて神様の方に向かって動いた(ハートの絵を上へと動かしながら)。

そして今度は柔らかい心を以て、イスラエルの人たちに向かう。あなたたちの中で主の民に属する者は誰でもエルサレムにいますイスラエルの神、主の神殿を建てるために、ユダのエルサレムに上って行くがよい。神が共にいて下さるように。

 

そして、自分の国が滅んでがっかりしていたイスラエルの民の人たちはどうしたかと言いますと、そこで、ユダとベニヤミン(イスラエルの部族の名前)の家長、祭司、レビ人、つまり神に心を動かされた者は皆、エルサレムの主の神殿を建てるために上って行こうとした(エズラ一・五)。今度はイスラエルの民が心を動かされました。神様が彼らの心を動かしました。それで、よしやろう! 神殿を建てよう! 以上、エズラ記の話し。

 

先日の祈祷会である方がこう言われました。「日曜日、教会の礼拝が気になりだした」。そうなった理由は一つ。神様がその人の心を動かして下さったからです。それで求道者になっていく。ただ背中を押されるようにして、教会に行こう、礼拝をささげようという心になってくる。

聖書にもそういう人たちの話が沢山あります。東からやってきた学者たち。「私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(マタイ二・二)。星を見て礼拝をささげるためにエルサレムまではるばるやって来ました。どうして? 心動かされたんです。それからクリスマスの晩、あの羊飼いたち。「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせて下さったその出来事を見ようではないか」(ルカ二・一五)。わざわざベツレヘムまで出かけて幼子を探し当てました。どうして? 心動かされたんです。

イエス様はどうですか。ある時イエス様は、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた(ルカ一九・二八)。そしてエルサレムではとうとう、何も悪いことをしていないのに捕らえられてしまいます。捕らえられる直前、イエス様はこう言われました。「時が来た。人の子は罪人たちの手に渡される。立て、行こう。見よ、私を裏切る者が来た」(マルコ一四・四一~四二)。十字架にかかるって分かっているのにです。どうして? 心動かされたからです。イエス様も。

イエス様を捕らえて十字架につけた人たちの心はこうでした(黒のギザギザの絵を見てもらいながら)。それではイエス様のお気持ちは、私を裏切り、私を捕らえて十字架につけるなんて、酷い奴らだと、こうでしたか(同じく絵を見てもらいながら)? 違います。イエス様は十字架上でこう祈られました。「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ二三・三四)。この時のイエス様は、相手の人たちのギザギザした心を包み込みながら、イエス様のお心は穏やかでした(丸みのある虹色の絵を見てもらいながら)。いや、ただ穏やかというだけではありません。愛のお心です(ハートの絵)。

 

私たちも、ギザギザした心を抱えています。喧嘩することあります。相手を赦せない心になっていることもあります。イエス様、そんな私たちを憐れんで下さい。そのような私たちを、十字架のイエス様が「彼らをお赦し下さい」と祈り包んで下さると知ったなら、私たちの心はどうなりますか? 穏やかになります。有り難うの心になります。イエス様がそのように私たちの心を動かして下さいます。

そうしたら、私たちの心は、今度は、愛の心になってこうなります。 「どんな願い事であれ、あなた方のうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、私の天の父はそれを叶えて下さる。二人または三人が私の名によって集まる所には、私もその中にいるのである」(マタイ一八・一九~二〇)。心を合わせて祈るようになります。

 

いのり

イエス様、主は私の力、私の盾です。あなたが私の心を動かして下さいます。その時、私の心は主に依り頼みます。主の助けを得て私の心は喜び躍ります(詩編二八・七)。私たちのギザギザした頑な心を、柔らかな、そしてその時その時、愛の心にして下さいます。私たちは心を合わせて、祈り合い、歌をささげて感謝いたします。あなたの御名をほめたたえます。

一歳くらいの赤ちゃん、ご飯の時に椅子に座ります。滑り落ちないようにベルトもします。まだお箸もスプーンも使えないので、親が食べさせます。好きな食べ物だと、もうじっとしていられない。立ち上がらんばかりに体を動かします。これ食べたい! 言葉がまだ言えないので体で表現しているようです。

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