日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2022年10月23日 説教:森田恭一郎牧師

「祈りつつ、病の者を力づけ」

詩編一〇三・三~五
ヤコブ 五・一三~一八

「相互牧会」。来週、主日礼拝と研修会にお招きします飯島喜代惠牧師の文章を通して、私はこの言葉を知りました。その文章を研修会の予備資料としてお配りしておりますので、ご覧戴きたいと思います。その最後の所に、「相互牧会共同体」とあります。相互牧会を担うのは、相互ですから、共同体なのですね。今回の研修会をきっかけに、改めて、教会の私たちみんながいる共同体、その相互牧会の共同体造りを心に留めたいと思います。

 

今日のヤコブ書は、その共同体の姿を描いています。あなた方の中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい(ヤコブ五・一三)。ここで祈り、あるいは賛美の歌を歌いなさいと命令形で言われているのは、単数形の個人です。けれども、勝手にどうぞ、ということではなく、あなた方の中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせて下さいます(ヤコブ五・一四~)。これは教会の営みです。病気の人は長老たちを招きなさい。長老たちは油を塗りなさい。長老たちは祈りなさい。長老たちを招いて、油を塗ってもらい、祈ってもらい、その共同の営みから恵みを受けて、苦しんでいる人も祈り、喜びを得るなら賛美の歌を歌う。

続けて、その人が罪を犯したのであれば、主が赦して下さいます。罪の苦しみの中にある人はだから、主に癒して戴くために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。告白し合う、互いのために祈るのですから、これも共同体の営みです。互いに祈られた者が祈る者へと変えられます。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします(ヤコブ五・一五~)。

 

この箇所(一三~一六節)から浮かぶ疑問を三つ。一つ目は、私たちの祈りは正しい人の祈りなどと言えるのか。長老さんならともかく。そういわれてしまうと長老だって、いえいえ、祈るとしても私なんか、となるでしょう。

五章六節に主イエスのこととして、正しい人をあなた方は罪に定めて殺したとあります。誰よりも正しい人というのは、主イエス・キリストです。言うまでもないことです。キリストは、私たちの誰よも深く、傷つけられる者となられました。そして主イエスは祈りの方でした。毎朝、毎日祈られました。そしてゲツセマネでの悲しみの中での苦しい祈りを祈られた。肉において生きておられたと時、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげられた(ヘブライ五・七)のでした。

その主イエスがペトロに対しても明言されました。「しかし、私はあなたのために、信仰がなくならないように祈った」。祈って下さった。その祈りはしかし、ペトロを更に招く。「だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ二二・三二)。祈って戴いたペトロは、兄弟たちのために祈り力づける者へと変えられていきます。ペトロ自身が元々正しい人であったのではありません。正しい方主イエスに祈られて、その祈りの姿に学び、真似て、以降、祈る者、兄弟たちを力づける者とされる訳です。私たちも同じです。

ここである新聞記事の文章を紹介したいと思います。それまでスポーツマンであった彼が、体調を崩し、診察を受けると、心臓移植しか治療法はない、今生きているのが不思議なくらいの段階だと言われる。婚約していたけれども彼は「人生、終わったな」と思った。生きる気力もついえてしまい所だった。誰からの死があって、移植する心臓です。ためらいもあった中、ある人からこう言われて前向きになります。「臓器提供は『提供する』という本人や家族の意思が表示の基に成り立っている。だからあなたは申し訳ないと思ってはいけない。感謝してその思いを受けて生きるべきだ」。手術後彼は「私は、ドナーさんとご家族のお蔭でその心臓が自分の中で生きている。生きているのは私独りではない。夫婦の間に子どもたちも生まれた。命のリレーの意味を噛みしめています」。彼はその後、臓器移植の啓発活動に携わるようになって、移植医療と社会の架け橋を担う者となりました。

私たちも、十字架に命ささげられたキリストから祈って戴き愛を受け、生かされている。申し訳なく思うのは信仰の思いではない。感謝を以て祈り、相手のためにキリストの愛を以て生きます。

疑問点の二つ目。あなた方の中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。両方出てきます。皆さんは苦しんでいる人の方ですか、喜んでいる人の方ですか。

もう一つ、文章を紹介します。受付の掲示板の所にあります中林洋長老の文章です。そこにまーテレサの言葉が引用されています。私たちなど足下にも及ばないマーテレサの言葉かと思いきや、神の存在への疑念が延々と述べられている文章です。その中から「私は、あなたを呼び求め、すがりつきますが、あなたは応えてくれません。闇はあまりにも暗く、私は孤独です。シスターや世の人々は、私の心の中には神への信仰と信頼と愛が充満しているに違いないと思っています。彼らは、私が、表面上の明るさという仮面によって、どれ程の虚しさと苦悩を覆い隠しているのかを知りません」。マザーテレサの内に、喜んでいる人と苦しんでいる人の両面があることが分かります。

中林長老もこう記します。「私たちも二面性があります。表面上は信仰者として振る舞っていても、私たちは日々、主を裏切っています。だから私たちは教会に行かなくなるのでしょうか。いや、そうだからこそ、私たちは教会に行くのです。主イエスが祈っていて下さるからです」。

ヤコブ書はエリヤを引用します。エリヤは、私たちと同じような人間でしたが、雨が降らないようにと熱心に祈った所、三年半にわたって地上に雨が降りませんでした。しかし、再び祈った所、天から雨が降り、地は実をみのらせました(ヤコブ五・一七~)。私たちと同じような人間でしたが、とヤコブ書はわざわざ語ります。再び祈ったところとありますが、列王記の該当箇所を読みますと、彼は、地にうずくまり顔を膝の間にうずめて祈ります。しかも、祈ったとおりにならない度に七度祈りました。それで雨が降りました。その何度も祈る間、エリヤも、マザーと同じく、また私たちと同じく、信仰と疑いの二面性の間で揺れに揺れ続けたのではないでしょうか。

疑問点三つ目は、病の癒しと罪の赦しが並んで出てくることです。詩編にも、主はお前の罪をことごとく赦し、病を全て癒し、命を墓から贖い出して下さる(詩編一〇三・三)と、罪の赦しと病の癒やしが併記されています。主イエスも、医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである(マルコ二・一七)と語られました。中風の者が罪の赦しの宣言を受けて病が癒されていく。病の癒しを、罪の赦しの単なる例としてお語りになったというより、病の癒しも罪の赦しも関連した共に主の御業です。

この点に関しては、この度の予備資料の文章が指し示しているものがあります。介護支援活動が信徒の相互牧会の業、教会の業に展開したこと、ある方が病の現実の中にあって、病床聖餐に与り「天国にいるようです」と言われた話を紹介しています。私たちは病そのものを治療することはできませんが、病床にある人を主が罪の赦しの恵みの中に招いておられることは確かです。予備資料に飯島喜代惠牧師が記しておられます。「問題の渦中に置かれた人間の現実の只中に差し込む神の慈しみと、現実を貫く神の言葉の慰めの力を見ていました」。飯島喜代惠牧師から、病のケアと罪の赦しが結びついた相互牧会の恵みの経験を伺いたいと楽しみです。

終わりにひと言。問題の渦中に置かれた人間の現実、それは高齢者の病だけではありません。教会の現実もあることでしょう。若者の置かれている現実もあることでしょう。主イエスは、時に暗闇の中にいると思う全ての私たちを御自身の祈りと慈しみ、み言の慰めと力づけの光の中に、そして、その恵みを分かち合うこの共同体の中に私たちも招かれています。

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