日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2022年5月29日 説教:森田恭一郎牧師

「和解ゆえ、敵意が滅ぶ平和の福音」

イザヤ五七・一九
エフェソ二・一一~一八

エフェソ書は高らかに宣言します。実に、キリストは私たちの平和であります(二・一四)。それをもたらしたのは十字架の御業です。直前の言い方ではキリスト・イエスにおいて、キリストの血によって(二・一三)と言っていますが十字架のことです。今日はエフェソ書から、キリストの平和の場所が何よりも教会であることを味わいます。

 

今日のエフェソ書は、十字架を転換点として、それ以前とそれ以後を区別しています。

それ以前とは、一一節の後半からです。あなた方は以前にはとある通りです。その頃は(二・一二)、以前は(二・一三)と語っています。この一一節以下は、以前はずうっと繰り返しそうだったというニュアンスがあります。肉によればずうっと異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者とずうっと呼ばれていました。また、その頃は、ずうっとキリストと関わりなく、ずうっとずうっとイスラエルの民に属さず、ずうっと約束を含む契約と関係なく、この世の中でずうっと希望を持たず、ずうっと神を知らずに生きていました。あなた方は、以前はずうっと遠く離れていた。

それが、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によってという、あの一回限りの十字架の御業の転換点があります。そしてキリストの側から見れば、私たちは近い者となった(二・一三)。

この十字架の転換点があって、今や(二・一三)、実にキリストは私たちの平和でありますという平和の実現が起こっている。そして十字架によってもたらされた平和の中身を以下表現しています。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました(エフェソ二・一四~一六)。

 

ここで想いを向けたい言葉が三つ。一つ目は、敵意という言葉です。今日、心に留めたいと思った言葉です。敵を滅ぼされたのではなく「敵意」を滅ぼされました。私たち人間は、そこに戦争や争いはなくても敵意を持つ。あんな人はいなければ良いのに、と敵意を抱く。それが表面化して争いや国同士であったりすると戦争にも至る。この敵意を滅ぼして下さった。

それから二つ目は敵意という隔ての壁。これも目を惹く言葉です。敵意があると、そこに隔ての壁が心に生じます。当時はユダヤ人と異邦人との間に隔ての壁があった。二〇世紀になってもベルリンの壁があった。それが崩壊したはずだったのに、今、また戦争が起こり隔ての壁が全然壊れていないことを目の当たりにしています。でもこの隔ての壁は、私たち自身も、友人との間に、家族との間に、様々な人との間に、むしろ関係が深いほど、深刻な事柄として隔ての壁を経験する。教会もまた、世界の教会の歴史において宗派分裂、教派分裂を繰り返してきた。内部分裂もある。日本の教会の歴史もそうです。私が以前おりました教会も分裂して出来た教会でした。河内長野教会も過去に分裂を経験しています。動機において悪意はなくても隔ての壁は生じてしまったと思います。更に言えば、牧師や教会員同士だって、いつでも起こり得ることです。私たち自身のことです。隔ての壁が出来て、お互いの心が遠くなる。そういう実感は、多かれ少なかれ経験している。

 

そして心の留めたい三つ目は和解です。仲直りということですが、心に隔ての壁が生じてお互い遠くなってしまった者が、対等に仲直りすることは案外難しい。例えば戦争当事国が、対等に和解することは容易ではない。戦争を続けることがどちらにとっても損害をもたらすだけであることは分かっているのに、自分の側が優位に立つまでは争いは終わらない。

私たちも隔ての壁が出来てしまった時、対等に和解するためには、その前に、神様が私たちと恵みの中で仲直りして下さったということを心に留め(エフェソ二・一一)ねばなりません。それが十字架の御業です。それは私たちが神様と対等になってではありません。それは不可能です。私たちは神の敵でしかなかったからです。それが、恵みを戴いた。私たちが敵であった時でさえ、御子の死によって神と和解させて戴いた(ローマ五・一〇)のでした。

私たちの側と言えば、実に、キリストは私たちの平和と言える現実を、キリストは血を流すまでして実現して下さったのに、相変わらず敵意という隔ての壁を作っている。それを越えるのは、キリストに立ち返ることによってです。

パウロは、当時の教会でみんなが告白した文章を引用してこう語りました。神は、キリストを通して私たちを御自分と和解させ(Ⅱコリント五・一八)て下さった。この和解の営みは、繰り返しますが神様の御業です。私たちを新たに造り出す創造の御業です。私は唇の実りを創造し、与えよう。平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。私は彼をいやす、と主は言われる(イザヤ五七・一九)。また、だから、キリストと結ばれる人は誰でも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた(Ⅱコリント五・一七)。そして、こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ(エフェソ二・一五~)。

 

この神様の側の創造の御業に心を留める。ここにおいてこそ、私たちの側が、お互い同士、対等になって、お互いに和解できる。心の隔ての壁を越えることが出来る。この和解を受ける場、キリストに立ち返る場、平和の福音を告げ知らされる場、それが教会だと、エフェソ書は語っている訳です。実に、キリストは私たちの平和であります。

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