日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2020年4月26日 説教:森田恭一郎牧師

「一緒に呻いているか」

詩編一一九・一四五~一四八
ローマ 八・二三~二五

先週は、神を思い続けて呻いて良いのだと語りました。私たちは呻く。困難の中で。でも困難は永続きはしない。新しい天と新しい地の創造のご計画に向けての救済史の中に置かれているからです。その上で一つの問いかけです。呻いて良いのですが、私たちは本当に呻いているのか。

今、世界中でこの感染症により亡くなった方は既に二十万人。その中には献身的に働いた医療関係者も沢山います。患者やその家族、医療スタッフ、体は元気でも職場を失った方たち…、みんな混沌、混乱、闇の中で呻いている。ただこれを私が評論家みたいに語った所で何も呻いたことになりません。私たちは、身近な親しい人が一人でも亡くなったら悲しみで一杯であるのに、第三者の苦しみとなると、結局、他人事でしかないのか。

 

数週間前ある番組を見ました。あのクルーズ船に乗ったばかりに新型コロナウィルスに感染して夫を亡くされた方の取材番組です。船内で感染し、その後病院に搬送されますが、ベッドサイドで声をかけることも出来ない。危篤になっても手を握ることも出来ない。やっと寄り添うことが出来たのは火葬の後お骨になってから。自分ではどうしようもならない運命としか言いようのない、やるせなさです。医療スタッフが献身的にしてくれたとはいえ夫も孤独だったことでしょう。夫人は、夫の感染が判明してから取材に協力するまでの間、幾度、夜明けに先立ち眠れぬ朝を迎え、悔しい思いをし、嘆いたことでしょう…。夫人はこの日々を言葉に表し、他の人にこんなことが起こらないようにと願い、取材に応じました。それは、諦めるしかない運命を、望みに繋がる経験に変換していく営みだったのでは…と思います。

彼女のこれまでの現在に至る苦しみを私たちは実体験として一緒にすることは残念ながら出来ません。その人が生涯で経験した自分の喜びや苦しみがあってこそ、その人の固有な人生になるからです。それで、自分も同じ状況に立たされたら、と想像を広げて頭と気持ちだけでも追体験したいものだし、現在から将来に向けて望みを共有していくこと、そのための呻きなら一緒に出来るのではないか。それが今日の結論です。詩編記者は、朝毎に夜明けに先立ち、助けを求めて叫び、御言葉を待ち望みます(一一九・一四七)と記しました。叫びさえ望みの中での叫びであることを覚えたい。

 

パウロは呻きを共有出来ました。被造物は虚無に服しています。被造物が全て今日まで、共に呻き、共に産みの苦しみを味わっている(ローマ八・二二)。何故、被造物の呻きを共有出来るのだろうか。そしてまた、私たちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中で呻きながら待ち望んでいます(同八・二三)と自分たちの呻きを語り得たのか。

それは…、キリストと共に苦しむ(同八・一七)経験をしたからです。この苦しみは通常、キリストが最期には十字架に付けられたように、使徒パウロも、広くはキリスト教徒も、キリストと共に殉教、迫害など、苦しみを共にすることだと考えます。が、今日は呻くという視点から考えてみたい。主イエスは、耳が聞こえず舌の回らない人のために天を仰いで呻いた(=深く息をつく。マルコ七・三四)のでした。せっかく神に造られたのだから、神の言葉をその耳で聴き、その口で賛美することが出来るようにと呻きました。

また単語は異なりますが、十字架上で「渇く」と言って呻かれました。父なる神が主イエスをキリストとしてこの世に遣わし給う、その御心にも救いのご計画にも、誰一人として思いを馳せることをしない。主イエスは「アッバ、父よ」と呼びかけるほど、神との関係においては親しくあられましたが、この世との関係においては孤独でありました。弟子たちでさえ主イエスを見捨てて逃げ去り、ペトロも三度主イエスを否み、群衆も指導者も皆が主イエスを十字架に追いやったのでした。全ての者が、自らの渇きを自覚しないほどに自らの罪に麻痺している。この人間の渇きを主イエスは負い、「渇く」と言って呻かれたのでした。

 

パウロはいつ、主イエスの呻き、この苦しみを共にすることが出来たのか。それは主イエスとの出会いの初めからです。主イエスがサウル(=パウロ)に呼びかけます。「サウル、サウル、何故、私を迫害するのか。私は、あなたが迫害しているイエスである」(使徒言行録九・四~五)。これを聞いてサウルは何を思っただろうか…。主イエスは、サウルが迫害するキリスト教徒を御自分と同一視なさって、彼らの苦しみを共有しておられる。主イエスが苦しんでおられ、呻いておられる。

サウルは、自分が迫害して主イエスを呻かせ、主イエスに苦しみを負わせている自分の姿に気付いた。切なかっただろうと思う。主イエスの呻きを通して自分こそが呻くべき者であり、そして主イエスが共有するキリスト教徒の呻きを知ります。

 

パウロは被造物の呻きを語ります。被造物が全て今日まで、共に呻き、共に産みの苦しみを味わっている(二二節)、被造物は虚無に服し(二〇節)、滅びの隷属(二一節)の下にあることに気付いていました。アダムの故に土は呪われるものとなった(創世記三・一七)のでした。被造物にとっての虚無、滅びの隷属、それは生態系の中で弱肉強食の下に生きねばならないということでしょうか。更に今日では、人間が自然に任せるのではなく養殖するようになりました。そこでは魚にしても動物にしても野菜にしても、人間に食べられるために生まれ、育てられ、殺され、食卓に並ぶ。もし彼らが自覚し得たら、自分の生きる事の空しさ=虚無を感じるのではないか。でも幸いなことに、その彼らだって、終末の日には、体の贖われること、即ち神の被造物であることが明らかになり、神の栄光をたたえる万物の礼拝へ招かれる。

その時もしかしたら、被造物たちが私たちの前に現れて「私はあの時あなたに我が身をささげた魚です、動物です、野菜です」と言ってくるかもしれない。その時私たちはどう返事をするのか…、有難うございましたとしか言い様がありません。日本人は本来、食べ物、その命の尊さには敏感であるはずです。食事の度に「戴きます。ご馳走様でした」と言う。捕鯨が盛んな和歌山のある町では鯨供養をします。命への感謝です。

サウルはあの日主の御声を聴いた。「私はあなたが迫害しているイエスである」と。私たちも、キリストにお目にかかる。「私があなたを贖うために十字架にかかったイエスである」。そう仰って手と脇腹を示される。その時私たちも、命への感謝を超えて、即ち主イエスを供養するのではなく、主の栄光をたたえます。この自分の贖いのための主の苦しみを共にし、主の呻きを切実に知るからです。ここから更に、十字架で被った主イエスの手と脇腹の傷が、未だ信じていない人たちや被造物のためにもあることを知る。それによって、彼らの呻きや苦しみを知ることになります。

そして私たちは、第三者の苦しみを直接体験出来なくても、主の苦しみを共にして、主が彼らの苦しみをも担って下さると信じることが出来る。

 

私たちは、(聖)霊の初穂(二三節)、即ち信仰を戴いて洗礼を受け既に神の子とされ、罪の贖われていることを信じています。でもパウロはそれで満足しない。新しい天と新しい地の創造が完成する将来には神の子とされること、つまり、体の贖われること心の中で呻きながら待ち望んでいます。罪の贖いで終わらず、体ごと経験する体の贖われる大きな希望です。パウロはキリスト教徒としての呻きを語りました。自分が迫害を受けて苦しんでいるのですから、呻くのは当然です。でもこの呻きは現在の苦しみの呻きで終わらない。私たちはこのような希望によって救われています(二四節)。この呻きは、苦しむこととではなく希望、待ち望むことと一体です。しかも被造物(未信者を含む)は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいる(一九節)のでした。彼ら被造物の呻きも、待ち望むことと一体です。将来の希望に向けて呻いています。 パウロは別の所でこう語りました。キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで、自分の弱さを誇りましょう(Ⅱコリント一二・九)。これも、弱さを実感する現在の苦しみを、キリストの力が宿る希望に変えている。

私たちは、パウロと同じような仕方で呻きたい。運命のような現在の苦しみを将来の希望への経験に変換する。私たちは第三者の苦しみを一緒に出来ないかもしれない。でも忍耐して待ち望む呻きは一緒に出来そうです。キリストと共に苦しむ現在の苦しみ(一七~一八節)から語り始めたパウロは、私たちが希望の内に生きるようにと、こう締めくくります。私たちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです(二五節)。

 

祈り 御名をたたえます。現在の苦しみの中で、次の一歩を踏み出そうとする様々な支援の試みが社会に芽生えています。これらは希望を生み出す呻きの営みです。そのために祈ります。また夜明けに先立ち、聖書が約束する希望に向けて祈り、希望への呻きを私たちも一緒に担わせて下さい。

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