日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2017年11月5日 説教:森田恭一郎牧師

「み言葉のみ」

詩篇119篇129~130節
マタイによる福音書8章5~13節
宗教改革を主題にして9月末以来説教しております。宗教改革三大原則と言えば「聖書のみ、信仰のみ、万人祭司」と以前は学んでおりましたが、近年は五原則になっています。「聖書のみ、信仰のみ、恵みのみ、キリストのみ、御言葉のみ」の五つです。そして万人祭司の日本語の言い方は全信徒祭司性と言い換えられたうえで、五原則からも消えて信仰によって生きる事柄として「信仰のみ」の中に含まれるようになってきました。それで今日は五原則の中から説教題を「み言葉のみ」と致しました。
皆さんここで、少し戸惑われるかもしれません。「み言葉のみ」というのと「聖書のみ」というのとどう違うのだろう、と。
「聖書のみ」というのは、信仰的に考えたり発言したり、教会として何事かを実践したりするときに、なぜそう考え発言し実践するのかという基準は何かということを追求していくと、それは聖書だという事になります。宗教改革の当時、それらの基準が聖書にではなく、ローマ教皇の発言やローマカトリック教会の公会議の決定が基準となっていました。もちろんそれが聖書の語ることに基づいてなされていればまだ良かったのでしょうが、聖書に根拠のないことを教皇も語り公会議も決議することが多くあった。
例えば贖宥状はその代表的な例です。贖宥状を金銭で買えば罰が免除されるなどということは聖書のどこにも書いていない。あるいは聖人たちの善き業に基余剰の功績が教会に蓄えられているとか、宗教改革の後に決められたマリア無原罪の教理とか…色々ある訳です。先日、上智大学教授のカトリックの司祭の方から伺った話では、カトリック教会がマリアを大事にするのは、終生主イエスに寄り添ったマリアの信仰の姿勢にあやかる思いからなのであって、信仰の対象ではないと言っておられましたが、ルターにしてみれば聖人崇拝は聖書に根拠がない訳です。また聖書を解釈する規準も教皇にあるのではなく聖書自身なのです。自分の信仰の善し悪しも聖書によって判断すればいい。
このように、当時の教皇の権威に対して聖書の権威を対峙させたということが「聖書のみ」という意味なのです。
それに対して「み言葉のみ」はどういうことか…。例えば創世記、神さまのみ言葉が発せられます。「光あれ」。すると「こうして光があった」。この時のみ言葉は聖書ではないですね。あるいはヨハネ福音書の冒頭の聖句「初めに言があった。言は神と共にあった」。この「言」、日本語では言葉の葉なしで言一文字で「言」ですが、これはもうキリスト御自身の事であって聖書ではないですね。
今日、私たちにとって「み言葉」は聖書の言葉ですが、敢えて申しますと、聖書の言葉がそのままみ言葉なのではありません。聖霊の導き、聖霊によって聖書の言葉が照らされ明るくされる聖霊の照明によって聖書の言葉が神の言葉になります。更に申しますならば、聖霊の照明によって説き明かされる説教において、聖書の言葉は神のみ言葉になります。詩篇119篇130節(p.966)「御言葉が開かれると光が射し出で、無知なる者にも理解を与えます」。文語訳を覚えておられる方もおられるでしょう。「聖言うちひらくれば光をはなちて、愚かなるものをさとからしむ」。み言葉が開かれ光を放つのは聖霊の照明によります。そしてそれが説き明かされると神様による救いについて無知な人間も神さまの事が分かり、ただ知的に分かることを越えて、出会いが起こるということです。「聖言うちひらくれば光をはなちて」は、説教において聖書が打ち開かれて、光を放つ御言葉になるということでありましょう。もちろん、自分で聖書を読んで神様との出会いが起こることもありますが、それは主日の礼拝での説教の説き明かしを受けた経験を通して、教会の信仰を通して、聖書をみ言葉として読むからです。

さて、マタイ福音書8章の主イエスが百人隊長の僕をお癒しになった記事ですが、主イエスはそれに先立ち「イスラエルの中でさえ、これほどの信仰を見たことがない」とイスラエル人ではない異邦人の百人隊長の信仰を褒めておられる訳です。その信仰とは「主よ、私はあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません」と異邦人としての慎みを弁えつつ、「ただ、ひと言仰って下さい。そうすれば、私の僕は癒されます」。彼は軍隊の百人の兵隊を管轄する隊長でしたから、兵隊たちに命令する。するとそのように兵隊たちは働く。もちろん軍隊では上官の命令に背いたら罰せられますから、その権力に従っている訳ですが、それにしても言葉を以て命令すれば命令通りに働く、その言葉の持つ不思議さを百人隊長は実感していたのでしょう。こんな自分の人間の言葉でさえ言葉が事実になっていくとするならば、まして神様なら、神様のみ言葉は尚更、一度発せられれば出来事になるのは当然ではないか、この信仰です。
そして主イエスは彼に宣言なさいました。「帰りなさい。あなたが信じた通りになるように」。百人隊長が信じた信仰とは、癒しが起こる奇跡の信仰ではなく、ひと言仰って下されば、というみ言葉への信仰です。そして「あなたが信じた通りになるように」というのは、直訳すると「あなたが信じたように私はあなたに成らせよう」。「なるように」というのは、成るかどうか分からないけれど成ればいいね、というような願望で終わるものではなく、「私はならせるぞ」という約束の宣言です。み言葉は、ただ読まれるものではなく、自分に向かって告げられるものです。しかもその約束は遠い将来の事ではなく「丁度その時、僕の病気は癒された」今の出来事となりました。この宣言のみ言葉が発せられた時、百人隊長はどのような思いだったでしょうか…。本当に治るかなという疑いはなく、自分は未だ見ぬ僕の癒されたことを確信しながら帰って行くのです。主イエスがある時仰った通りです。「だから言っておく。祈り求めるものは全て既に得られたと信じなさい。そうすれば、その通りになる」。これは信じるその人の信仰が賞賛されているというより、信じるみ言葉を信頼することが大事だということです。百人隊長も自分の信仰を誇ることもなく「あなたが信じたように私はあなたに成らせよう」というみ言葉をこそ心に満たし「必ずみ言葉の通りになる」と確信しながら、喜びの内に僕のいる所へと向かったに違いありません。
私たちの地上の人生は、主イエスから御言葉の宣言を賜った百人隊長が確信しながら帰る、帰りの道すがらなのではないでしょうか。
これから聖餐に与ります。み言葉は、み言葉と関りを持つものを御言葉にします。聖餐は見える言葉と言われます。説教が告げられ聴く言葉であるのに併せて、私たちはみ言葉を、身体的に見て味わう仕方も備えられている訳です。

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