詩編 三二・一~五
ヘブライ 四・一二~一三
神の言葉は生きて(ヘブライ四・一二)いる。言葉が生きているとはどういうことか。生きている言葉の前に私たちは何を自分の言葉として語り得るか。教会の内に神の言葉が生きている。それが今日の主題です。
神の言葉は言い放しにはなりません。「光あれ」(創世記一・三)と言われたら、そこに光が生じる。神の言葉は出来事となり成就します。旧約聖書に記された神の言葉は、主イエス・キリストとなって成就しました。ですから「神の言葉は生きている」は「キリストは生きている」と言っても良い。
その生きている言葉、キリストは生きているという事を続けてこう言い表します。力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離す程に刺し通して、心の思いや考えを見分けることが出来るからです。神の言、生きておられるキリストは私たちの思いや考えを鋭く見分けることが出来るのですから、怖い位です。
福音書の記事から味わいます。人々が床に寝かせたまま連れて来た中風の者に向かって主イエスが「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と宣言された記事です(マタイ九・一~)。その主イエスの言葉を聞いた律法学者の中に「この男は神を冒瀆している」と思う者がおりました。「罪を赦すことが出来るのは神のみ。であるのにこの男は『あなたの罪は赦される』と言って、まるで自分が神であるかのように振る舞っている。けしからん奴だ」と。主イエスは彼の考えを見抜いて「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」。そして中風の人に「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われると、その通りになったのでした。
どちらが易しいか。どちらも難しいです。主イエスは両方の難しさを克服して、両方の言葉を、言い放しではない出来事となさいました。そして主イエスが地上で罪を赦す権威を持っておられることを明らかになさいました。主イエスの言葉は嘘ではない。主イエスの言葉もご自身も真理だと明らかになりました。
「あなたの罪は赦される」、実際に赦すのは易しい事ではありません。罪は裁かれるべきことですから赦しが実現するためにはどこかでその罪が裁かれねばならないからです。主イエスはその罪を十字架で担われました。
また「起きて歩け」との言葉をその通りに実現するのは易しい事ではありません。でも実際に見える出来事になさいました。そうやって両方の言葉を出来事になさいました。
律法学者は、主イエスによる罪の赦しの出来事、主イエスの権威の前に立たされます。であるのに彼はそれを素直に認めようとはしない。立法学者の考えは見抜かれてしまいました。
ヘブライ書に戻りますと、神の言葉は心の思いや考えを見分けることが出来る。ですから、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、全てのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです(ヘブライ四・一三)。そこで、今日考えたいことは、この生きている神の言葉を前にして、私たちはどうお応えするのかということです。
続けて記してあります事は、この神に対して、私たちは自分のことを申し述べねばなりません(ヘブライ四・一三)。口語訳聖書では、この神に対して、私たちは言い開きをしなくてはならない、でありました。神様を前に、私たちの思いは見分けられ、さらけ出されているから言い開きをすることになる。自分の事をどう言い開きすれば良いのでしょう? 実はこの文章、どう訳したらよいかとっても難しい文章です。直訳すると「彼と共に私たちに言葉が」。そこで、私訳ですが「言葉が主イエスと共に私たちに」。そして動詞を補って「迫って来る」。
あの福音書の記事で、主イエスの言葉が彼らに迫って来る。「あなたの罪は赦される。起きて歩け」。中風の者はどう答えるのか。「そんなことある筈がありません」と床に寝たままでいるのか……。いいえ、彼は起き上がったのでした。お言葉の通りになりました。主イエスのお言葉に対してアーメンと応えた訳です。一方、律法学者はこう答えることが出来たのではないか。「本当にあなたには罪を赦す神の権威をお持ちです。アーメン」。私たち教会はどちらでしょうか。私たちは、人生を振り返って申し開きや弁明、弁解、言い訳をするのではなく、積極的に「こんな私の罪を赦して下さり有難うございます」と応える。これが、神に対して自分のことを申し述べる、ということでしょう。
詩編の記者はこう記しました。
いかに幸いなことでしょう。背きを赦され、罪を覆って戴いた者は。いかに幸いなことでしょう。主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。私は黙し続けて、絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。御手は昼も夜も私の上に重く、私の力は、夏の日照りにあって衰え果てました。
私は罪をあなたに示し、咎を隠しませんでした。私は言いました。「主に私の背きを告白しよう」と。その時、あなたは私の罪と過ちを、赦して下さいました(詩編三二・一~五)。
ここで彼は、罪の申し開きをしているのではありません。罪を告白し、赦しの恵みを戴いています。「いかに幸いなことか」と言って喜びの感謝をささげています。神に対してそういう自分のことを申し述べます。
私たちも、そのように招かれている。「あなたの罪は赦される。起きて歩け」。主イエスのお言葉通りになる。教会は主イエス・キリストを頭とする、その体なるキリスト共同体です。礼拝で、神の言葉がキリストと共に私たちに迫って来る。その通りになる。私たちは、アーメンと応えます。
それで次に繋がります。さて、私たちには、諸々の天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、私たちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか(ヘブライ四・一四)。信仰を公に言い表すことへと繋がります。主イエスが私たちの弱さや罪を負われる十字架の恵みを以て、私たちに迫ってくる。主イエスとそのお言葉とをそのままに受けとめ信仰へと導かれる。そして礼拝で主イエスと共に迫って来る神の言葉に「アーメン」と私たちは応えます。
今日の説教題を「み言葉は、エネルギッシュに生きている」としました。「エネルギッシュ」は、力を発揮し(ヘブライ四・一二)を言い換えたものですが、エネルギーの元になった用語です。辞書には「活動的に」と意味が載っていましたが、そのまま「エネルギッシュに」と説教題にしました。
皆さん、教会と礼拝についてこうイメージしましょう。神の言葉が生きていてエネルギッシュに迫って来る、活動している、躍動している。
そして私たちはと言えば、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです(Ⅰペトロ一・二三)。