イザヤ 九・五―六
Ⅱペトロ 三・一三
待降節を迎えました。教会の暦の新しい一年を迎えています。過ぐる一年間、守られて過ごすことが出来たことを感謝しつつ、新たな一年も主なる神様の祝福を戴きながら歩んで行くことが出来るようにと祈るものであります。
待降節、旧約の立ち位置から言いますと、救い主が来られるのを待つ。新約の立ち位置から言いますと、主イエスが再びお出でになるのを待つ。そして嫌々待つのではなく望んで待ちます。ペトロ書も待ち望んでいます。しかし私たちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです(Ⅱペトロ三・一三)。
新しい天と地です。一個人の魂の救いはもちろんのこと、それを遥かに超えた世界の完成、御国の到来を表しています。御国には王として全てを治めるイエス・キリストのお姿があります。そして私たちもこれを日々祈り求めています。御国を来たらせ給え、と新しい天と新しい地が来て御国が完成するようにと主の祈りを祈ります。ただ、それまでの未完成の間は、御心の天になる如く地にも為させ給えと祈ります。御心が成らないと思える現実に押し潰されないように、したたかに希望を捨てず、使命意識を以て生き抜いて行きます。
今日のイザヤ書も、そのような中でイザヤが希望を与えられた聖句です。先に、ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが、後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは栄光を受ける(イザヤ八・二三)。これらの地名は、メソポタミアの大国、アッシリアが何度となく攻めて来て結局占領されてしまった地域です。地中海沿岸の国々もあれば、北王国イスラエルも含まれています。しかしその場所で闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた(九・一)。この地域に大きな変化が起こり神様のご支配が回復する。そのしるしがひとりのみどりごが私たちのために生まれた。ひとりの男の子が私たちに与えられた(九・五)。王様となる方が誕生することなのです。
この一人のみどりご、一人の男の子とは一体誰か? 旧約の歴史の文脈の中で言えば、二週間前にお話ししたヒゼキヤのことだと言われています。大国アッシリアの軍隊にエルサレムを取り囲まれてしまって八方塞がりの状況に陥たこともあったあのヒゼキヤ、あるいは死の病になって壁の前で泣いたあの王様です。でもヒゼキヤはそんな時でも神様により頼むことの出来る、列王記では良い王様とされている人です。八方塞がりになって周りは壁ばかりでも天井は空いている。天に開かれている。嘆きながらも祈り、気付いてみると壁にひびが生じてくる、塞がっていた壁に穴が空いて来る。そのように不思議な導きを受けたヒゼキヤ王でしたが、その王の誕生が、イザヤ書九章で預言されている。
キリスト教会の私たちはもう、ヒゼキヤの事は飛ばして、イエス・キリストの到来、クリスマスの出来事を預言する言葉として受け取ります。
この一人のみどりごについて、もう一ヶ所、来週読みますイザヤ書にこう預言の言葉があります(七章一四節)。「それ故、私の主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」、神は我々と共におられるという意味ですね。よく読むと、しるしを与えられる。男の子が生れるのはしるしなのだという訳です。
しるしとは何でしょうか。先日私は、お野菜を戴きました。「どうぞお召し上がり下さい」と心を込めてプレゼントして下さった訳ですから、その野菜を見ると、下さった方のお顔とお気持ちを思い浮かべる訳です。その野菜はこの方のお気持ちのしるしになっています。しるしというのはそれ自身としては、その野菜なのですが、そこに気持ちや意味が込められている。この度のお野菜は私にはしるしの経験となりました。
ここでイザヤがあなたたちにしるしを与えると言って、一人のみどりごが生まれた、インマヌエルと約束している。このしるしはとても大事です。
私たちは弱くて罪深くて、現実の色んなことに振り回されて、希望を持てなくなる。神様の約束の言葉を信じられなくなるからです。私たちのその罪深さや弱さを、神様は分かっておられて、知っておられて、だからお前は駄目だというのではなくて、そのようなお前にとっても希望は確かだ、神様の約束は本当だ、とそのしるしを与えて下さいます。真の王であり救い主であるキリストの到来を指し示すしるしです。そのしるしとしてイザヤは、みどりご(=ヒゼキヤ)のことを預言します。
私たちは直接目に見える仕方で主イエス・キリストを見てはいません。でも見たことが無いのに、愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせない素晴らしい喜びに満ち溢れています(Ⅰペトロ一・八参照)。何故、見ていないのに主イエスを信じられるのか? 聖書の解き明かしを聞き、洗礼と聖餐のしるしが教会にはあるからです。
そうやって主イエスを信じることが出来ると、今度は、主イエスがしるし、約束と保証にもなります。新しい天と新しい地とが到来する。それを待ち望むことが出来るようになります。このようにしるしの連鎖があります。教会にあるしるしがあるので主イエスを信じ、主イエスというしるしがあるので新しい天と地を信じられる。逆から言えば、再臨を信じ待ち望み、更に自分自身の甦りを信じ天国があると言えるのは、キリストが二千年前に降誕され、甦られて天に帰られたイエス・キリストというしるしが与えられているからです。主イエスが地上にお見えになったことがないままに、これらの事を信じることは出来ないでしょう。
弟子たちもそうだった。クリスマスに主イエスがご降誕なさった。十字架にかかり甦られた。このお方を救い主だと弟子たちは信じました。弟子たちはよくぞ理解し信じられたものだと思います。十字架にかかって死んだこの男を、神の御子救い主であると信じることが出来たのは、旧約聖書の預言があったからです。インマヌエルの方だという旧約のイザヤの約束の言葉があったからです。そして聖霊の導きによって、主イエスの出来事と旧約の言葉とが関連付けられ結びついた。だからこそ、自分たちに備えられた神の独り子、救い主として主イエスを理解し、信じることが出来た。
もっと言うと、その旧約の預言を信じるのも、神様がダビデの王座を据えて下さったと信じるのも、神様が出エジプトの紅海の奇跡を起こして下さったと信じるのも、天地創造の御業を成し遂げて下さったと信じるのも、私たちの信仰がそれを信じているからあるのではない。まず、神様の御業があったから、しるしが備えられたから、それで私たちは信じている。そして神の御業が成就していくのは何故かと言うと、今日のイザヤ書は、万軍の主の熱意がこれを成し遂げる(九・六)のだと宣言しています。
私たちは時に、八方塞がりの状況になることがある。でも実は、私たちを取り囲んでいるのは、万軍の主の熱意、神の愛です。これも見えないことですが、主の熱意、神の愛のしるしとしてキリストを受け取る時、信じることが出来ます。主の熱意、神の愛がキリストに現れていると信じることが出来る。このしるしを、今日もまた聖餐式に於いて戴くのです。