日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2023年12月3日 説教:森田恭一郎牧師

「『栄光神に在れ』となってこそ」

詩編一一九・二八
ガラテヤ三・一九~二五

教会暦の新しい年を迎えて待降節に入りました。救い主のご降誕を待ち望む期間です。旧約の時代の人たちは、救い主の到来を待ち望みました。

今日、改めて思いを馳せたいことは二つ。一つは律法の役割、もう一つは信仰の役割です。

まず一つ目。パウロは待ち望むようになる経緯を、律法の役割の視点から語っています。律法は、約束を与えられたあの子孫(=キリスト)が来られるときまで、違反を明らかにするために付け加えられたもの(ガラテヤ三・一九)。それから、聖書(特にモーセの律法の書のこと)は全てのものを罪の支配下に閉じ込めた(ガラテヤ三・二二)。なるほど、人間の作る歴史の現実は、今も昔も愛と赦しからは程遠い。 「私の魂は悲しんで涙を流しています。御言葉の通り、私を立ち直らせて下さい」(詩編一一九・二八)とあるように、悲しんで涙を流すしかない現実があります。でもそれで終わりません。そこから気付くべきことがあります。人は救い主に立ち直らせて戴く他はないということです。それをパウロはこう語ります。私たちは律法の下で監視され、閉じ込められていました。こうして律法は、私たちをキリストの下へ導く養育係となったのです(ガラテヤ三・二三、二四)。それで救い主を待ち望む思いも育まれました。

そして今の私たちも、終末に救い主が再び来たり給うことを待ち望んでいます。それは救い主なる神様に歴史を完成して戴く、御国を来たらせて戴くためです。人間の愛や赦しはありますが、不完全です。歴史の完成のためには、御国を来たらすキリストの再臨を待ち望むしかありません。キリスト待望へ導くのが律法の役割です。

 

違反を明らかにするとか、罪の支配下に閉じ込めたとか、余り良い感じはしませんが、でももし、人が律法を百%、完全に守ることが出来たとしたら、どうなるでしょう。それで世界が平和になるならこの方が良いようにも思います。でも、事の善悪を知って神のように立派になった、救いも救い主も必要としない、と勘違いする鼻持ちならぬ人間になってしまうでしょう。そこには、罪を贖って救って下さり有り難う、とキリストに感謝をささもしなければ、キリストの栄光をほめたたえることもしなくなります。

涙を流す一方で、他方、神様の憐れみを求めることが人間には必要です。そして実際には律法を守れず、愛と赦しに生ききることが出来ない世界の私たちですから益々、神様の憐れみを求める祈りが必要です。神の栄光をたたえるものであってこそ、被造物の本分なのですね。

聖書は全てのものを罪の支配下に閉じ込めましたが、神様の歴史支配の約束があることが、キリストを信じて見えてきます。パウロは語ります。全てのものは、神から出、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン(ローマ一一・三六)と。

 

二つ目、信仰の役割について。今日のガラテヤ書で興味を惹く言葉があります。それは「信仰が現れる」(ガラテヤ三・二三、二五)という言葉です。直訳すると「信仰が来る」です。信仰が来る、と言うなら、キリストがお越しになる、と言えば良さそうなものですが、パウロがそうは表現しないで、敢えて信仰が現れると記した。これも意味がありそうです。というのはまず、キリストがお越しになるという言い方は、客観的に私たちの外の出来事として表現しています。

それに対して信仰が来るというのは、キリストがお越しになることによって人間の側、自分の側に信仰が与えられたことを表しているようです。例えば、洗礼を受けた頃のことを思い起こすと、イエス・キリストを信じる信仰が、自分の中に現れてきた、やって来たという言い方も出来そうです。というのは、キリストへの信仰は宗教心とは異なり、元々自分の中にはないものだからです。その自分の中に信仰が現れ、やって来た。それで自分は信じる者となった、と言えるからです。

先週『証し』の書物から、信仰者らしからぬ姿(律法を守っていない姿)をさらしながら不条理の中でも、何故神を信じるのか、の問いかけを受けました。それは不条理の中にあっても信仰が現れてきて、救いの約束を信じ、御国の到来に希望を持つからです、と応えましょう。

聖餐に与ります。自分の外にあるパンと杯から、自分の中に恵みを戴きます。信仰の現れを身に受けて、自分が益々キリストに支えられる恵みを受けとめ、感謝をささげ栄光をたたえます。

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