ミカ 七・一八
エフェソ一・一七~一八
エフェソ書の箇所は前回と同じ箇所ですが、今日は、教会を覚えての執り成しの祈りの二番目の所、前回の希望に続いて、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせて下さるように(エフェソ一・一八) の聖句です
受け継ぐことについて思い起こす聖句の一つはⅠペトロ書の聖句です。受け継ぐのは、空間的には天に蓄えられており、時間的には終わりの時に受け継ぎます。神は、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなた方のために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者として下さいました。あなた方は、終わりの時に現されるように準備されている救いを受け取るために、神の力により、信仰によって守られています(Ⅰペトロ一・三~五)。空間的には天に蓄えられ時間的には終わりの時に受け継ぐ、それは地上では今は直接には見えず、信仰によって守られ心の目を開いて見る (エフェソ一・一八)ことが必要だということです。それで守られている。
先日の元旦の午後、中部教区主催の「能登半島地震二年を覚えて」の記念礼拝がありました。リモートで参加しましたが、輪島教会の新藤牧師が説教下さいました。聖書は、旧約聖書の少年ダビデが次の王様として選び出される場面 (サムエル記上一六・五~)でした。そこに居た人々は容姿や背の高さからダビデの兄たちを相応しいのではと思いましたが神様は「人は目に映ることを見るが主は心によって見る」と仰って、まだあどけなさが残るダビデを選び出します。ひと言加えますとダビデが選び出されたのは、ダビデの心が素晴らしかったからというよりダビデの心に置かれた神様の選びの故です。選びの理由はわかりません。
新藤牧師は、かつて御自身が自己破産し会社からもリストラされたこと引き出しながら、およそ神を信じる気持ちではなかった。それがその後、神学大学に、そして今、この輪島教会に遣わされている。およそ想像もつかなかったことだ。能登半島の地域は、人口も減少し経済もなかなか復興しないし、教会員も減っている。これからどうなるのか。また神様のお考えは何なのか分からない。神様を信じた所で目に映ることは何も変わらない、とも思う。でも主は心によって見る。輪島教会は、応援を戴いて、コンテナの仮会堂設置まで出来た。先日、宅配の窓口で全く知らない係の人から輪島教会の立て直しはいつですか、と聞かれた。毎日出勤の折、前を通るとのこと。仮会堂の十字架を見ながら、教会にも思いを馳せておられる。地域の人々の希望のしるしになっている。
このようなお話しを伺いながら、私たちが受け継ぐものを神様が用意しておられて、それは天に在り終わりの時に全ては明らかになるのだけれども、能登半島地震の困難な中で、諸教会が信じながら今を歩み抜いているのだ、と励まされた思いです。またこの記念礼拝を企画された中部教区の祈りの姿勢も、祈る事への勇気を与えらました。
エフェソ書は、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせて下さるようにと執り成しています。聖徒たちが受け継ぐもの、それは栄光に輝いている訳です。クリスマスの晩、主の栄光が周りを照らして、羊飼いたちは非常に恐れた程でしたが、その輝きは私たちにはよく分かりません。物理的な光の輝きというより、神様の素晴らしさと言えるでしょうか。
旧約の預言者ミカはこう語りました。あなたのような神が他にあろうか。咎を除き、罪を赦される神が。神は御自分の嗣業の民の残りの者に、いつまでも怒りを保たれることはない。神は慈しみを喜ばれる故に(ミカ七・一八)。私たちはこのような神を、イエス・キリストから見出します。キリストのお姿から、あなたのような神がおられるということ、罪の赦しや慈しみという、私たちが受け継ぐ栄光の輝きを知り得ることが出来ます。
さて東方から来た学者たちは「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか。私たちはその方を拝みに来たのです」と尋ね求めました。そして星に導かれ、幼子に平伏し拝み、黄金、乳香、没薬を献げました。黄金は歴史を支配したもう王に相応しく、乳香は祈りをささげる祭司に相応しく、没薬は十字架で命をささげる贖い主に相応しく、献げました。私たちは礼拝をささげ、拝み、祈りをささげ、信仰をささげます。
天にいまして栄光に輝く父よ。
新たな年を迎えました。「栄光、神に在れ」と私たちは歩み始めました。地上の私たちの献げるものは貧しいものでしかありません。けれども、献げるときには主イエスを拝みます。礼拝をささげ祈りをささげるときには主イエスを拝みます。
私たちの受け嗣ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか、空間的には天を仰ぎ、時間的には御国の到来を待ち望みます。その時「信じても何も変わらないではないか」との不信仰な疑いを乗り越えられます。礼拝にてあなたを拝み、祈りの内に信仰とその歩みをささげて、私たちの生き抜く慰めと勇気を与えられたく存じます。身体に弱さを抱える方たちにも、あなたの慰めと勇気のお支えが体ごと包んで下さいますように。
能登の復興に向けて、そこに生きる人たちを支えて下さい。能登の諸教会が、そして河内長野教会も「あなたのような神が他にあろうか、咎を除き、罪を赦される神が」と礼拝をささげ天を仰いで、栄光の輝きを悟らせて下さい。そして、そのように礼拝をささげる教会の姿が、地域の人々の希望となりますように。