詩編一一八・一~九
ルカ二四・二五~三五
今日登場する二人の弟子たちは嬉しそうに語り合いました。「道で話しておられるとき、また聖書を説明して下さったとき、自分たちの心は燃えていたではないか」(ルカ二四・三二)。 弟子たちの心が燃えたのは、聖書の説明を聞いている内に燃え始めました。ですから、これをやったぞ、やり遂げたぞ、という達成感で高揚する燃え方ではありません。燃えるという用語は、受け身です。自分で燃やしたというのではなくて、燃やされていた。私たちも聖書の説明を受け、表情も明るく、静かでも良いから心燃える経験をしたい。
主イエスの復活の日、二人は暗い顔をして立ち止まった (ルカ二四・一七)のでした。それは、この二人がその日起こった一切の出来事について話し合いながら、エルサレムから六十スタディオン(およそ十一キロ余り)離れたエマオという村へ歩いている時でした。二人には分からなかったのですが主イエス御自身が近づいてきて「その話は何のことか」と尋ねてこられた。それで答えました。主イエスが十字架で亡くなったのに、墓に出向いた婦人たちに天使が現れ「イエスは生きておられる」と告げた。ご遺体は墓にはなかった。あの方は見当たりません……。私たちは、あの方こそ、イスラエルを解放して下さると望みをかけていたのに……。そう言って暗い顔をしている。
二人は、意気消沈し暗い顔になったその中で、イスラエルの中心地エルサレムから離れてエマオに向かっている。単なる地理的な説明ではありません。彼らユダヤ人にとっての心の拠り所になっているエルサレム神殿がある所。そこから離れていく。拠り所を失い、エマオに向かう、と言っても、特別目的があるわけでもなく心はさまよったまま表情は暗い。でも、その彼らが、聖餐に与ることで目が開け主イエスがおられることを確信しました。これが聖餐に与る恵みの出来事です。そして聖餐に先だって聖書の話を聴いて心が燃えた。 この経験話は、その後のキリスト教会、キリスト教徒にとって、心が燃え表情が明るくなる福音書の言葉になりました。 先週もお話ししましたが、ルカ福音書を執筆した紀元七〇ないし八〇年代、エルサレム神殿は紀元七〇年にローマ軍によって崩壊していました。ユダヤ人たちはユダヤ教の信仰の中心点を失って、神殿の代わりに各地の会堂で律法を中心とするユダヤ教のあり方を作り上げていきました。エルサレム神殿がなくなってしまった分、一層、自分たちがユダヤ人でありユダヤ教徒であることを強く意識しました。
それで当時のキリスト教会は、ユダヤ人たちからユダヤ教徒であることを執拗にしつこく求められて、キリストを拠り所とする信仰が試されもし、揺らぎもした。ユダヤ人中心のマタイの教会や、パウロが記したガラテヤ書のガラテヤ教会の問題はそこにあります。一方、キリスト教会は異邦人伝道で異邦人社会に入っていくと、今度は異邦人文化、多神教宗教にさらされながら、やはり信仰が試される。
パウロも一方ではユダヤ人たちの宗教、他方では異邦人たちの宗教、その両にらみで、キリストの恵みを語り続ける訳です。パウロ自身と言えば、イスラエル十二部族ベニヤミン族の出身で律法の義については落ち度がない(フィリピ三・五~六)、生まれも育ちも生粋のユダヤ人、ユダヤ教徒だった。ユダヤ人であるという体の身体性を持ちながら、信仰は今、キリストを信じている、キリストに彼の拠り所はある。その結果、ユダヤ人でありながらキリスト教徒という二重性を抱える。
私たちで言えば、日本人であり日本社会に暮らしている。別の言い方をすると私たちには私たちの地縁血縁があって、これを否定することは出来ません。そして同時にキリスト教徒である。この二重性を抱えている。その上で、自分の拠り所はキリストの恵みにある。これを確認したいですね。
この二重性、例えば私たちは、家に帰ると仏壇や神棚があって手を合わせることがあるかもしれません。それは未信者の家族への配慮で仏壇に手をあわせることもあるでしょうけれども、一人住まいになっても続いていることが案外あって、身についている。先祖崇拝も染みついている。それは駄目だと責めるというより、事実を認識した上で、自分の拠り所はキリストの恵みにあると確認することが必要です。
二人の弟子たちは、ユダヤ人としての拠り所を失って暗い顔をしていました。それが、聖餐に与って二人の目が開け、イエスだと判り、聖書の説明を受けて心が燃えた。自分たちの拠り所はここにある、と確信しました。
目が開け(ルカ二四・三一)とありますが、これは受け身で、目を開けてもらったということです。また聖書を説明して(ルカ二四。三二)とありますが直訳すると、聖書を開いて。これは、目が開け、と同じ単語です。聖書は読むというより聖書が開いて語りかけてくるのを聴く。その時心は燃える。
どのような時に語りかけてくるのか。聖霊の執り成しの下にいつでも語りかけてくるのですが、私たちの側で聖霊の執り成しを拒まず聴く姿勢を持たねばなりません。聴く姿勢を持てるのは、苦しいときが多いと思います。今日の詩編の言葉で言うと、苦難の狭間から主を呼び求めると(詩編一一八・五)という時です。苦難の狭間。苦しさに挟まれ苦しさの只中。そのような時に聴く姿勢となって、御言葉が迫ってくる。どう迫ってきたかと言いますと、主は私の味方、助けとなって…、人間に頼らず、主を避け所としよう(同七、八節)、自分の拠り所とするべき場所が見えてくる。このように聖書が開いて語りかけてくるのを聴く時、私たちの表情は健やかになっているに違いない。また、心も静かに燃えているのを感じているに違いありません。
礼拝にて、そして日頃から、更に苦難の狭間から聖書に聴き親しむ、その所から来る恵みです。この恵みを、聖餐にてパンを食べ杯から飲む営みを以て体に味わいます。頭だけで理屈で理解するのではない。当然ながら日本人であることが身について染みついている、そういう自分の身体の中に入ってくる。身体性を持ち二重性を抱えた私たちの心に刻みます。主は私の味方、助けとなって…、人間に頼らず、主を避け所としよう、と拠り所となり、救い主であられる主イエス・キリストを心に刻みます。