ダニエル書9章16~18節
テサロニケの信徒への手紙一5章16節~18節
「絶えず祈りなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなた方に望んでおられることです」…と言われても、絶えず祈るなんて出来ない…と思う。しかし他方、私たちは「もう祈るしかない」と思う時もあります。今日は、祈ることについて思いを巡らしたい。
今日はダニエル書9章を読みました。1395頁の4節から始まるダニエルの祈りの言葉の途中からの個所です。ダニエルという人物設定は、ユダヤからの捕囚の一人(6・14)でバビロニアで宮廷に仕えている。9章の時代設定はダレイオスの治世第一年、B.C522年です。バビロン捕囚は終わったけれども未だエルサレム神殿の再建まで至っていない時代の紀元前6世紀の終わり近くです。そのバビロニアの捕囚時代を知る彼が、今はペルシャ時代を生き、そして幻を見る仕方で、ペルシャ王国の行く末を見、更にはギリシャについての言及もある。それは紀元前170年代の王まで登場する。ダニエル書の著者が生きていたのは、イエス・キリストの降誕までもう二百年を切っていた、西ヨーロッパではローマが台頭してきている時代でありました。その彼が、この9章の所では紀元前500年代終わりに近い時代に身を置いて祈っている。廃墟と化したままのエルサレムを思いながら、祈っている。16節以下です。
「主よ、常に変わらぬ恵みの御業をもってあなたの都、聖なる山エルサレムからあなたの怒りと憤りを翻して下さい。私たちの罪と父祖の悪行のために、エルサレムもあなたの民も、近隣の民全てから嘲られています。私たちの神よ、僕の祈りと嘆願に耳を傾けて、荒廃した聖所に主御自身のために御顔の光を輝かして下さい。神よ、耳を傾けて聞いて下さい。目を開いて、私たちの荒廃と御名をもって呼ばれる都の荒廃とを御覧下さい。私たちが正しいからではなく、あなたの深い憐れみのゆえに、伏して嘆願の祈りをささげます。主よ、聞いて下さい。主よ、お赦し下さい。主よ、耳を傾けて、お計らい下さい。私の神よ、御自身のために、救いを遅らせないで下さい。あなたの都、あなたの民は、御名をもって呼ばれているのですから」。
ここではイスラエルの捕囚の原因となったイスラエルの民の不信仰とその罪を一方に振り返りながら、他方、世界の歴史の常を見据えています。4章の終わりに、時の王、ネブカドネツァルが裁かれてその政治生命を終える時に語る言葉があります。 「私、ネブカドネツァルは天の王(真の神のこと)をほめたたえ、あがめ、賛美する。その御業は真、その道は正しく、驕る者を倒される」。この王に自分の身に起こったことを語らせながら、驕る者が倒されるという世の常をダニエルは語る。この歴史の事実はと古今東西変わることがないようで、極東日本の平家物語でも「驕る者久しからず」と謳っています。
歴史には驕る者が出て来て真理を曲げ、そして驕る者久しからずであるり、それが繰り返されるだけのようにも見える。この歴史の繰り返しは如何ともし難い。多くの人は諦める。諦め=諦観することに悟りがあるような事さえ言われたりもする。
しかしダニエルはそこで一信仰者として祈る。いつも歴史の原点に返る。神はおられる。罪の人間は長続きはしない。神が生きて支配しておられる。それを祈る。それはしかし驕る者を責めるようにして祈るのではない。また自分の正しさを主張するのでもない。
9章18節の言葉で言うならただただ「あなたの深い憐れみの故に、伏して嘆願の祈りを奉げます。主よ、お赦し下さい」と祈る。そのように導いて下さいと祈るしかない。
ダニエルのことで周囲の者たちが妬みの故に策略を巡らした時、その時にも祈り続けたダニエルの姿が書いてあります。9章11節です(p.1390)。「ダニエルは王が禁令に署名したことを知っていたが、家に帰るといつもの通り、二階の部屋に上り、エルサレムに向かって開かれた窓際に跪き、日に三度の祈りと賛美を自分の神にささげた」。彼はそれを目撃されて捉えられてしまう訳ですが、この開かれた窓際で祈る姿。周囲の策略を巡らす者たちをどうしようともせず、祈る。この文面から私たちも、心の窓はいつも開いていたいと思う。開いていれば、御言葉が聞こえてくる。皆さんも日常の生活の中で、何か課題にぶつかっているときに、以前親しんでいた御言葉が思い出されてくることはありませんか。そしてその御言葉によって、その御言葉にすがるようにしながら祈りの中へと引きこまれることはないですか。心の窓がいつも開かれてありますように。
さて12章4節に「多くの者が動揺するであろう。そして知識は増す」。10節にいは「多くの者は清められ、白くされ、練られる。逆らう者は尚逆らう。逆らう者は誰も悟らないが、目覚めた人々は悟る」。紀元前末期から紀元後に入るこの時代の黙示文学特有の謎めいた言葉が続きますが、確信している事柄はただ一つ「この神は生ける神、世々いまし、その主権は滅びることなく、その支配は永遠」。 私たちは信じています。神の生きて働かれ、人間の罪が渦巻くこの歴史の中でそれでも神がご支配しておられることを。
私は高校時代に社会科の授業で老年の先生からこう習ったことを忘れられない。「第二次世界大戦は帝国主義で始まり、平和主義で終わった。憲法が変わるという事はそれまでの国が滅びて新しい国が誕生するということだ」と。日本国憲法は、押し付けられて出来たものではない。基本的人権の尊重、国民主権、これらは、ヨーロッパの歴史の中で、とりわけ清教徒、ピューリタン革命の担い手たちの思想から育まれてきた「人類普遍の原理」とされる考え方です。また平和主義は20世紀の二度にわたる世界大戦の反省から生まれてきた「人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚する」ことによって人類にやっと受肉した言葉です。誇りを以てこの憲法の思想を大切にしたい。これらはこの罪深い歴史の中に、生きて働かれる神さまのご支配あって実現してきたことです。それを信じるから、歴史は救いへと向かっていると信じます。
先日も紹介致しましたが、ここに「朝のみちしるべ」という書物をお持ちしました。副題に「聖句断想366日」とあります小島誠志牧師の記された聖書日課にも用いることの出来る書物です。丁度今日の個所に祈りに関わる断想の文章が載っています。詩篇81篇12節「私の民は私の声を聴かず、イスラエルは私を求めなかった」。そして小島牧師の黙想の文章です。「神の声を聴くことと、神に祈ることとは、分けることが出来ません。神に聞かなくなる時、人は祈れなくなるのです。神に聴くことは光の中に立つことに似て、神に自分をさらすことであります。あるがままの自分を神に晒せなくなった時、人は祈れなくなるのであります」。
祈れなくなった時、どうすればいいのだろう。心の窓を閉じて塞ぎ込んだりしないで、主の祈りの祈りの言葉を聴き取るようにしてゆっくりとなぞってみよう。
私は主の祈りを想う。天にまします我らの父よと歴史の現実の只中からただ父なる神を仰ぎ見ます。御名が崇められるようにと礼拝に生きる者とされて参ります。歴史は尚不完全のままであるけれどもいずれ御国が来てすべては解決すると希望を失わないでいます。御国の完成しないそれまでの間は御心が天に成就しているように少しでも地上にも成りますようにと地上を生きる勇気を戴きたく願います。そして今日も一日生きて行けるように日用の糧、また御言葉の糧を求めます。悪を以て悪に報いたくなる時罪の赦しを経験させて下さい。互いに平和に過ごせない時、弱さに流される時、試みを乗り越えて行けるように支えて下さい。栄光を神に帰しつつ、祈り続けて行く。主の祈りの言葉を聴き続けることによって、私たちはいつも祈りを失わないのであります。
主イエスは、十字架を前に祈り、十字架に在って祈り、そして今も弱い私たちのために、執り成しの祈りを以て支えて下さいます。
祈るしかない私たちです。私たちの心に開かれた窓を備えさせて下さい。主にあって、勇気と希望を与えられて祈る、そこから歩み出す私たちとさせて下さい。世界が平和でありますように。