詩編五五・二三
ガラテヤ六・一~五
今日は説教題を「重荷を負う柔和な心」としました。柔和というと国語辞典には、優しく穏やかな様、とげとげしい所のない、もの柔らかな態度、様子とあります。聖書が語る柔和は大分ニュアンスが異なっているようです。柔和とは重荷を負うことです。マタイ福音書は、主イエスがエルサレムに入城される様子を、ゼカリヤ書を引用してこう表現しました。「見よ、お前の王がお前の所においでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って」(マタイ二一・五)。ろばは馬のようには速く走れない。ろばは、ただただ荷物を背中に負って歩きます。主イエスは王様なのに軍馬には乗らないで、荷を負うろばの子に乗りました。そうすることによって、十字架の、罪を負う神の御子の出来事を表現されたのでした。
ガラテヤ書でパウロが兄弟たち、万一誰かが不注意にも何らかの罪に陥ったなら、霊に導かれて生きているあなた方は、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい (ガラテヤ六・一)と語っています。誰かを正しい道に立ち帰らせる、正すというのは、相手の過ちをただ優しく指摘してあげること以上に、相手の重荷を負うことなのですね。
そして相手の重荷を負えるのは、重荷を負う人が「霊の人」だからです。新共同訳聖書は霊の人を「霊に導かれている」と意訳しています。また「柔和な心で」とありますが直訳すると「柔和な霊で」となります。霊の人は柔和な霊の人です。
正しい道に立ち帰らせる導き方、そしてあのろばのように相手の重荷を負う。それでパウロは、互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです (ガラテヤ六・二)と語ります。通常の律法以上のことです。キリストの律法です。それは担うこと、負うことです。
ここで課題と思えるのは、私たちが柔和な心で相手の重荷を負う人であり得るのか、ということです。自分の重荷だけで精一杯で、誰か他の人の重荷までも負うなんて、とてもではないが出来ない、自分は霊の人なんかではなく、ただの肉の人でしかない。それが正直な所です。
そこで霊に導かれて霊の人となるとはどういうことか、考えてみたいと思います。先日の祈祷会で、今日のガラテヤ書の聖書個所を巡ってみんなで黙想しました。黙想といってもただ黙っているのではなくて、思ったこと、感じたこと、疑問も含めて出し合って語り合います。皆さん色々な思いを話して下さってとても楽しいひとときになりました。ある方がこう言われました。「悩んでいる人がいたら、聞いて、相談に乗って、その人一人に重荷を負わせてかぶせないで共に横の繋がりで助け合うのが良いのでは」。相互牧会ですね。もちろん私たちは、主イエス・キリストのように相手の重荷を負うことはなかなか出来ませんが、尋ねて聴くことは出来ますね。相互牧会の大事なポイントの一つであると改めて思いました。
前回のガラテヤ書の説教で引用した箇所ですが、ルカ福音書一八章三五節~(一四五頁)をもう一度。
このバルティマイの記事では、バルティマイが立ち帰ったのですが、それと共に彼を黙らせようとした人々も黙らせることを止めて、バルティマイを主イエスの所へと導く者となり、恐らくバルティマイと一緒に一層主イエスに思いを向けるようになりました。人々がこうなったのは自分でなったのではない。主イエスが、彼を連れてくるようにとお命じになられたからです。それで、人々は彼を黙らせるのを止めて、主イエスの所に導く者たちとなりました。主イエスはバルティマイも、人々をも御自分の所へとお導き下さった訳です。
ガラテヤ書に戻りますと、私たちは最初から霊の人なのではありません。主イエスが命じて下さって、私たちはその時に霊の人になる、私たちの心も柔和な霊になる。パウロは勧めます。互いに重荷を担いなさい。代わりに担いきることは出来なくても、相談に乗って話を聴くことは出来る。この聴く姿勢がないと、仮にどれ程正しいことを指摘し、あるいは何かしてあげたとしても、三節以下のようになります。実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることが出来ないでしょう。全くその通りで、どれ程正しくても、相手を立ち帰らせることであっても、それも自分の考えでしているに過ぎません。良かれと思って行うことでさえ自分がそう思っているだけで、結局は自分中心です。これはどうしようもない。これでは相互牧会は出来ませんね。
だから聴く姿勢が大事。たとえ自分から見て、相手が間違っている、過ちに陥っているとしてもまず聴くことが大事。相手の人の物事の見え方が思いがけない仕方で分かってくるかも知れません。
私たちは自分中心だとうことを自覚してパウロが次に言うようにめいめい、自分の重荷を担うべきです(ガラテヤ六・五)。また、自分の人生も、自分の病や障がいも、自分の苦しみも(社会制度の中で、相談に乗ってもらい、多少なりとも援助はしてもらえますが)、本質的には自分で負うしかない。そして重荷を負うことが、その人のその人固有の人生、その人のかけがえのない一生になる。自分の人生の営みの重荷を担う。また相手の悩みを聴いて重いなぁと思ったとして、それも含めて、相手の人と共に負ったその重荷を担う。
そしてそれらの重荷をめいめい担って、キリストの御前に出れば良い。この五節の「担う」は文法上は未来形であるので、終末の出来事ではないかという理解もあります。今であれ終末であれ、いずれにしても、キリストに向かって重荷を差し出すことが出来る。キリストが負って下さる、この希望を持つことが出来る。相互牧会で、教会が関係する者同士、長老も、この希望が備えられています。
聖餐式において、キリストが負って下さることを信じ、重荷を差し出す幸いを受けとめたい。
「あなたの重荷を主に委ねよ。主はあなたを支えて下さる。主は従う者を支え、とこしえに動揺しないように計らって下さる」(詩編五五・二三)。