エゼキエル一一・一九~二〇
ヘブライ 四・一四~一六
今日はペンテコステ(聖霊降臨日)です。聖霊が降ることを旧約聖書はこう描いています。
私は彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。私は彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。彼らが私の掟に従って歩み、私の法を守り行うためである。こうして、彼らは私の民となり、私は彼らの神となる(エゼキエル一一・一九~二〇)。
聖霊が降るとは、偶像の神々ではなく真の神様が私たちの神様となられ、私たちはその民となる。思えば幸いなことです。もちろん、私たちの側としては、神様を信じる信仰が必要です。そして信仰が与えられるのは、聖霊が降ることによります。聖霊に拠らなければ誰も「イエスは主である」とは言えないのです(Ⅰコリント一二・三)からです。神様が私たちの神様となって下さることに信仰を以て応答し、私たちは神様の民となります。石の心でなく肉の心とは、聖霊の導きを受け入れて応答する心の柔らかさです。この応答に聖霊の導きがあります。
そして神様の「民」ですから「共同体」を形造って下さる。共同体を形造る信仰は、個人的な自分だけの信仰ではなく、公に言い表して告白する共同の教会の信仰です、そのために私たちの側の応答としては、さて、私たちには、諸々の天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、私たちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか(ヘブライ四・一四)。最初のペンテコステの日だけでなく、歴史の中に継続して信仰が与えられ、しっかりと信仰を保ち、共同体が形造られていく。信仰を継続する応答にも聖霊の導きがあると信じます。
ヘブライ書は、信仰の継続に併せて私たちの弱さに言及します。この大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではなく(ヘブライ四・一五)と。私たちの弱さ、色々ある訳ですが、ここでは特に、信仰を保ち続けることが容易ではない弱さを語っています。神様を信じるようになったと言っても、生活が楽になるとは限らない、それどころか、信仰者に対する迫害も起こって来る。ヘブライ書の教会には、信仰を捨てる人がいた。教会に来なくなる人がいた。信仰を失いそうになる人がいた。教会に戻ることに引け目を感じてしまう人がいた。それは、本人の努力が足りない怠惰のせいだとか、本人の責任だとかではなく、どうしても心が頑なになってしまうことがある訳です。むしろそれは、教会の牧会の課題です。今風に言うなら、葉書を出したり週報を届けたりする訳です。ヘブライ書はそういった信仰の弱さを抱えている人たちに「戻っておいで、信仰を保って行こう」と呼びかけている訳です。
その上でしかし、ヘブライ書の教会も経験しているのではないか。教会の努力で、教会員の信仰を回復させるのではない。一人ひとりに対する聖霊の導きが、心を柔らかにし信仰を回復させる。教会が呼びかけるにしても、そこに聖霊の執り成しがなければならない。使徒言行録が語る聖霊降臨の出来事は、心を合わせて祈っていた(使徒言行録一・一四)ところに起こりました。聖霊降臨後も、彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった(使徒言行録二・四二)。ここに聖霊が自由に降臨します。教会の牧会は祈りを伴って初めて成り立つものです。
教会員に対する信仰の呼びかけ、聖霊の執り成しを祈り求めながら、信仰が回復する根拠は、主イエスが私たちの神となっていて下さる、主イエスご自身にあることに、ヘブライ書は行きつきます。もう一度、私たちには、諸々の天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから(ヘブライ四・一四)。
まず「諸々の天」、ある説明では、諸々の天には、我々を脅かす諸霊がいる、悪霊がいるのだとありました。その諸々の天を主イエスが通過された。そこで既に主イエスは、誘惑を受け、試練に遭遇し、この世の罪を経験しておられる。だから私たちの弱さに同情出来ない方ではない。私たちの受ける試練を知っておられる。
そして「大祭司」。旧約聖書における大祭司は、年に一度、大祭司しか入れない神殿の至聖所で、犠牲の動物に手を置いて、自分の罪、民の罪を負わせ、屠って神の御前にささげます。そうやって神様の御前に罪人を執成すのが大祭司の務めです。主イエスは大祭司ですが、動物ではなく御自分を、全人類の罪を身に負う犠牲のささげものとして父なる神様の御前に差し出し、そうやって執り成して下さる。
それをして下さるのは「神の子」です。イエスが神の子として、私たちの弱さを担う大祭司になって下さった。そのお蔭で、私たちが、その神様の民とされている。神の子ですから、罪を犯されなかった(ヘブライ四・一五)。ですが、神の子ですから完全に、あらゆる点において、私たちと同様に試練に遭われたのです。
ヘブライ書は、教会員に向かって語ります。中には信仰を失いかけている教会員に向かって、これからのこととしてこう呼びかけます。だから、憐れみを受け、恵みに与って、時宜にかなった助けを戴くために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか(ヘブライ四・一六)。
「恵みの座」。神がそこに臨在したもうことを象徴的に表す場所です。教会の礼拝はそれを象徴している。今、感染症予防のために、ご家庭におられる皆さんも、配信や週報等をご覧になりながら自覚して礼拝をささげておられるなら、基本的に同じです。
「近づこう」。今日も福音書の記事から味わいます。主イエスが嵐を静められた記事です(マタイ八・二三~)。ガリラヤ湖に舟をこぎ出すのですが、嵐になり、舟は波に飲まれそうになります。その時、主イエスは眠っておられました。弟子たちは近寄って起こし、「主よ、助けて下さい。溺れそうです」と言った。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰に薄い者たちよ」。そして起き上がって風と湖をお叱りになると、すっかり凪になった。弟子たちが主イエスに近寄って助けを求めたのが良かった。主イエスに気付き近寄ることが出来たのは、この舟に主イエスがおられるからですね。
ここに主イエスがおられる。世界中どこにも主イエスはおられる。聖霊は風のように自由に吹く。教会は、このことに気付き、それを知っている共同体です。一般の方たちは、気付かない。何故なら、主イエスが眠っておられるからです。主イエスは起こされることを待っています。そのために教会がこれを知らせることを求めています。教会が伝道して主イエスが「私の所に大胆に近づいて来なさい。憐れみを受け、恵みにあずかって、助けを戴きなさい」と招いておられます、と。
聖霊は、ここに主イエスがおられる、その場所、礼拝の恵みの座を形造って下さいました。今日も、この共同体を形造り、信仰を保つようにと導かれます。大胆に恵みの座に近づこう。