エレミヤ九・二二~二三
ヤコブ 二・一~七
ヤコブはキリストの事を、栄光に満ちた、私たちの主イエス・キリストと言い表します。栄光に満ちたキリストのお姿、私たちは日頃、主イエスのお姿というと、どのようなお姿を思い起こしているでしょうか。クリスマスの幼子のお姿、山上の説教をお語りになるお姿、人々をお癒しになるお姿、十字架のお姿、復活されたお姿…。ヤコブが、私たちに思い起こさせるのは、栄光に満ちたキリストのお姿です。ヤコブが促す栄光のお姿から気付くことは何か、それが今日の主題です。
私たち人間が、栄光のお姿の神様に対面したらどうなるか。神はモーセに言われました。「我が栄光が通り過ぎる時、私はあなたをその岩の裂け目に入れ、私が通り過ぎるまで、私の手であなたを覆う。人は私を見て、なお生きていることは出来ないからである」(出エジプト記三三・二〇~)。
またイザヤは神殿で「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主、主の栄光は、地を全て覆う」という天使の呼び交わす声を聞いて、思わずこう言いました。「災いだ、私は滅ぼされる。私は汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも私の目は、王なる万軍の主を仰ぎ見た」(イザヤ六・三~)。朝、布団をたたむのに、窓を開け、日が差し込んでくると埃がたくさん見えるように、聖なる神様の栄光の差し込んでくる中で、人は例外なく自らの汚れと罪深さを見せつけられ、耐えられない存在なのです。これをキリストが担って下さいました。
その人間がこの世の栄光に捕らわれている、人間の姿をヤコブは見ています。この世の栄光とは、この世の財産、名誉といったものです。この栄光の有る無し、多い少ないによって、人を分け隔てし偏り見、差別することがある人間の姿です。
ヤコブの言葉にそのまま耳を傾けましょう。私の兄弟たち、栄光に満ちた、私たちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。あなた方の集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、私の足もとに座るかしていなさい」と言うなら、あなた方は、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。
教会の礼拝においてこの出来事が起きていることに、信仰の不徹底さを見ているようです。
それでヤコブは私たちを、私たちの信仰の原点に立ち戻らせます。私の愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。
私たちが信仰を与えられた時、私たちはお金持ちだったから信仰を与えられた訳ではないでしょう、と思い起こさせます。私たちは社会的に言えば貧しかったとしても、選ばれて教会に集い、信仰に富ませ、いわば相続財産のように御国を受け継ぐ者とされている。パウロも言いました。兄弟たち、あなた方が召された時のことを思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かった訳ではなく、能力のある者や、家柄の良い者が多かった訳でもありません。それは誰一人、神の前で誇ることがないようにするためです(Ⅰコリント一・二六、二九)。
であるのに、人を分け隔てしているとすれば、それは誤った考えに基づいて判断を下していることになるのではないか。財産の有る無しに関係なく、一人ひとりが神様に愛された貴い存在です。
先日ある物語をビデオで見ました。「おみおくりの作法」というイギリスだったかスコットランドだっかの映画で、原題はstill life. その人生を今も尚 とでも訳せるでしょうか。主人公は社会福祉事務所の職員、民生委員のような仕事に就いています。孤独死をして引き取り手のない人の遺体が保存されています。その人を埋葬する手続きもします。彼はその人が亡くなると、アパートを訪ね、その人がどんな人でどのような人生を歩んできたか、手掛かりを探します。身分証明書やアルバムや手紙などです。それを手がかりに、彼と関わった昔の仕事仲間とかに連絡を取り、あっちへ出かけこっちへ出かけして、その人となりを聞き出していきます。とっくに世の中から忘れ去られていたこの人を思い起こします。「あいつは変わった奴でね、大変だったよ。でもあれだけは得意だったね」等々。そして主人公の職員は彼についての文章をしたためて、教会の牧師に渡し、福祉事務所の経費で葬儀を行う。多くの場合、参列者は彼一人。同じ日の埋葬まで付き合います。ある日、福祉事務所の上司から、君の仕事の徹底ぶりは評価するが費用が掛かりすぎると言われて解雇予告されます。他の職員なら、ある程度まとめて一度に事務的に埋葬するだけです。彼は、自分が担当する最後の人、いつものようにその人生を辿って行きます。十人位の人に出会います。娘がいました。とっくに縁は切っている、会いたくない。でも一生懸命、亡くなった人の人生を辿って、最後丁寧に葬儀・埋葬まで整えるこの主人公に娘は心和んでいき、父親の埋葬に参列します。彼と出会ったというだけで他には何の縁もゆかりもない人たちが、お墓に集まり埋葬し、亡くなった人はみんなに見送られます。
私は浜松でよく施設の葬儀をいたしました。なかには天涯孤独で、身寄りがなく、葬儀には引き取り人として市役所の福祉課の職員が一人参列します。でも、施設入居者共々みんなで、棺にお花を入れてお別れをします。人生の終わりをこうやって大切にしてもらえるのだと、入居者の方たちは安心します。皆さんは生きているその時に、分け隔て無く大切にしてもらえると思えて安心します。これも忘れてはならないことだと思います。
ヤコブ書に戻りますが、もう一度五節から、私の愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。信仰の原点に立ち返るべきことを求めます。
であるのにと続きます。だが、あなた方は、貧しい人を辱めた。富んでいる者たちこそ、あなた方をひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。当時、貧しい人がお金を借りて、返せなくなると富んでいる者たちが裁判所に訴えるということもあったようです。
それでヤコブは言います、また彼らこそ、あなた方に与えられたあの尊い名を、冒瀆しているではないですか。財産の有る無しで人を分け隔てするのは、周囲の人たちから見て、教会の人たちも世の中の人の価値観と同じだね、と教会の神様を称える必要を感じなくさせてしまう。冒涜と同じだという訳です。
またそもそも、もし主が、分け隔てなさったら、私たちは今、教会へと選ばれて招かれていないでしょう。この私たちを信仰へと招いて下さった、主の尊い御名をたたえます。
今日のエレミヤ書も思い起こしましょう。主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい、目覚めて私を知ることを。私こそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事、その事を私は喜ぶ、と主は言われる。この主の御前に立ってこそ、人は全て主の御前に平等であること、全ての人が御前に在っては恵みの中にあることを、教会の私たちは思い起こしますし、知っている。そのように主に愛された者として隣人を誇ることが出来る。実に幸いなことです。