レビ記19章17~18節
テサロニケの信徒への手紙一5章14節~15節
信仰と生活、この二つを「信仰」と「生活」というように二つ並べてしまうのではなく、「信仰生活」と一つになると、それは生活に身に着いた信仰ということになるでありましょう。今日の14-15節の言葉「兄弟たち、あなた方に勧めます。怠けている者たちを戒めなさい」以下の言葉でパウロが語っていることです。この言葉は、信仰生活の一つの形を表現したものです。これは、皆さん注意して頂きたいのですが、信仰あっての信仰生活であって、単なる善い行いとは異なるものです。つまり信仰と切り離された所で出てくる生活は「~ねばならない、~べきである」と自分の力で善い業をと考える。そして、こういうことが出来る人が、時にいる訳です。言ってみれば、キリスト教徒以上に品行方正な人っておられる。
「怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。全ての人に対して忍耐強く接しなさい。誰も、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、全ての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい」。そう生きている方がおられる。敬服すべきことです。
けれども…、仮に立派に出来たとしても、それは、信仰生活とは異なるものです。何故か。信仰の土台を為す「恵み」が無いからです。「人は行為によって救われるのではない、恵みによって救われる」。宗教改革者たちが立ち戻ったキリスト教の原点、これは…、自分で立派に出来る人には、時に受け入れ難い真理になります。
自分は立派にやっている、という所で自分を立たせている、保っているからです。信仰無き生活。他の人に対して誇らないとしても、自分に対しては、そこにプライドが出てくるからです。
また逆に、生活無き信仰というのもあり得る。信仰者の私たちには「私にはそんなに立派に出来ない」という思いが湧き出してくる。そもそも自分は罪人で、だから自分はイエス様の恵みによって救って戴いたのだ、と考える。その通りです。でもその時、信仰の生活が抜け落ちる。信仰だけになる。日曜日は、キリストの恵み・キリストの救いを信仰を以て有難く受け止めます。でも月曜日からの生活は、信仰抜きに、いわば非キリスト教徒として生きてしまう。
こういうこと、ありませんか? それで……、これでは良くない、信仰者らしい生活をしなければ、と考えて、キリスト教徒たる者、「~ねばならない、~べきである」と自分の力で善い業を、と考える。今日の14節以下の言葉もそう受け止める…。何か、違いますよね…。それで結局、あきらめて、信仰無き日常生活になる?
これもまた何か違いますね。「自分で立派に出来た」にしても、「いやぁ出来ません」にしても、「だからしっかりしなくっちゃ」にしても、結局は、信仰と離れた所で生きようとするからそうなる。
これらの、「信仰と生活」、言い換えて、「福音と律法」あるいは「義認と聖化」などなどは、昔から議論され、信仰者にとって課題であり続ける事柄です。皆さんにとってはどうでしょうか。この問いはしかし、皆さんちゃんと信仰生活していないでしょ、と責めているのではありません。むしろ「そう言えば、自分はこの時には信仰と生活が一つになった信仰生活を生きているな」と思える事を再確認して欲しいのです。日毎の社会生活、毎日の仕事の生活、日常の家庭生活、そこに自分の信仰生活が現れることがあるでしょう。
先日、イギリスのある教会に出席した方の感想を伺うことがありました。どういう感想かというと、日曜日に教会にやってくる人たちの姿がよそ行きではなかった、というものです。もちろん神様の前に出る礼拝ですから、それなりに身なりは整えて来るのですが、日常生活に溶け込んだ形で教会に来ている、そういう教会生活だ、という感想です。日常生活がそのまま教会生活になっているという印象をお受けになったわけですが、これは恐らく、逆もも言えるのではないでしょうか。教会生活がそのまま日常生活になっていると。教会と生活が一つになっている、と良い。これは教会に入りびたりの生活という意味ではない。教会と一つになって、キリストの身体なる教会の一部になっていると、信仰と生活が一つになっていく。信仰生活は不可能ではない、日常的に可能なのだ、 このことを、イギリスでの教会体験は教えている、と私には思えました。
どうしたら、より一層、教会と生活が、そして信仰と生活が一つになるか。何よりも教会に来て、キリストの救いの業に与り続けることです。このことをテサロニケ書から味わいたい。
そこで、キリストの救いの業、その出来事とそれが持つ意味、そしてそのような意味ある出来事がもたらす生き方について思い起こしたい。
2千年前の過去のキリストの出来事(十字架、復活、昇天の出来事)は、私たちがそれを知って重んじるなら、私たちの今の生活を造ります。そして、いつか成就する将来のキリストの出来事(再臨)は、私たちがそれを知って重んじるなら、私たちの今の生活を造り出します。
2千年前の過去のキリストの出来事、それを5章10節では「主は、私たちのために死なれました」と語ります。主が死なれた十字架の出来事は、9節の言葉で言うと「神は、私たちを怒りに定められたのではなく、私たちの主イエス・キリストによる救いに与らせるように定められたのです」という事を意味します。そしてそれ故に今度は10節の後半に「それは、私たちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです」と私たちの生き得る方向と現実の可能性を示します。そしてこの可能性を「主と共に生きている」という現実にしていく。すると、5章18節にありますように「ですから、あなた方は現にそうしているように励まし合い、お互いの向上に心がけなさい」。ここに「励まし合い、お互いの向上に心がけて生きる」という生き方が現実になります。
同じことは4章後半も同じです。
2千年前のキリストの出来事、それを4章14節では「イエスが死んで復活されたと、私たちは信じています」と語っています。この出来事は、続けて「神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出して下さいます」ということを意味しております。主イエスが甦られた出来事は、だから私たちも甦らされるということを意味しているという訳です。
そして甦られた主イエスが天に引き上げられた昇天の出来事は、私たちも天に引き上げられることを意味し、17節の文学的表現で言えば、空中で主と出会うべく私たちも引き挙げられるという事になります。私たちが甦らされ天に挙げられるということは、それ故に続けての個所で「このようにして私たちは、いつまでも主と共にいることになります」。これは全く将来の可能性です。主イエスが再びお出でになる終末以降のの出来事ですから。希望の範疇です。その将来の可能性である希望が、神の御子主イエスによって100%実現される可能性の希望でありますから、4章18節では「ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい」という現在の現実の生き方になります。キリストの十字架-復活-昇天の出来事の故に、私たちの、主と共に生き、励まし合う生き方が現実になる。
先週の説教題を「言葉に養われて、主と共に」と致しました。今週は「言葉に養われて、皆、共に」です。私たちが「主と共に生きる」というのは「主が私たちと共に生きていて下さる」ことに基づいている訳です。「主が私たちと共に生きていて下さる」という御言葉を信じ、御言葉に養われながら「私たちは、主と共に生きる」。そして、「主が私たちと共に生きていて下さる」という御言葉を信じ、御言葉に養われながら、今度は「私たちは皆、共に生きる」生き方が現実になっていく。その「私たちは皆、共に生きる」生き方の形の現実の姿の一例が、5章14-15節にある。
「兄弟たち、あなた方に勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。全ての人に対して忍耐強く接しなさい。誰も、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、全ての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい」。
この生き方は、自分一人の独力でやっているのではない。キリストの救いの出来事に与ることから生じてくる。
旧約聖書のレビ記を読みました。19章(p.192)、18節の途中、
「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」。テサロニケの聖句に書かれた生き方をひと言で言えば、隣人愛の話になる。
日本語の訳の問題ですが、「自分自身を愛するように」という訳し方は誤解を招きやすい。誰だって自分のことは可愛い。だから「あなたが自分を愛するように自分の力で隣人を愛しなさい」という言葉になる。主語は自分になる。そこには神様もキリストも出て来ない。そうではなくて本当は「神があなた自身を愛するように、神様に愛されている隣人としてその隣人を愛しなさい」。それで新約聖書では「隣人を自分のように愛しいなさい」とレビ記からの引用文を訳しています。「自分のように」、どのような自分か、紙に愛されている自分のように、ということです。
人は、いつも自分の力で人を愛せるものではありません。善かれと思ってやったことが、受け止めてもらえないこともある。相手と喧嘩してしまうこともある。そのような時、自分では愛せません。
その時に、自分が直接的に、相手を愛そうとするのではなく、神さまがキリストに在って愛して下さっておられる相手なのだ、と間接的にキリスト経由で相手を見る。そのように相手が見えてくると何かが変わる。
また相手を愛せない自分については、教会の礼拝でキリストに赦してもらう。そこで自分は支えられ立ち直らされる。出来れば、このキリストの救いの出来事、恵みの出来事に与る体験を相手と共有出来たらもっといいですね。その時、愛せない相手に対して、お互いに笑顔が出てくる。無理やりでなく。その時、信仰が生活になっている。教会での礼拝体験が、日常生活に展開していくのですね。
その時、自分が隣人を愛しました、という自己に栄誉を帰するのではなく、神さま有難うございました、「栄光、神に在れ」という信仰が生活になるのであります。