日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2025年5月18日 説教:森田恭一郎牧師

「被造物、主の栄光をたたえます」

創世記一・三一~二・二八
マルコ二・二八

初めに、神は天地を創造された(創世記一・一)。天地万物、この世界中の全ては、神様が何もない所からお造りになりました。私たち人類も色々なものを作りますが、みな材料を用いて作ります。神様がお造りになるのを創造、人間が作るのを製造と言って区別しています。

神様がお造りになる理由は、愛の故です。私たちを愛するためにお造りになりました。

創世記の最初から見ていきますと、初めは何が何だか分からない混沌だったのですが、第一の日に神が「光あれ」と命令されました。するとお言葉通り、光があって、光と闇とをお分けになりました。光は光、闇は闇、という区別、難しい言葉で言うと秩序をお造りになりました。創造主は創造主、被造物は被造物、そして人が造られると、神は神、人は人という秩序をお造りになりました。

第二の日には大空を作り水と分けました。以下、第三の日、第四の日、第五の日、第六の日。他の全てをお造りになり最後に人をお造りになりました。全てを整えて人を創造されました。この順序にも、人を愛しておられる御心が現れています。

そしてその六日目、全てをお造りになってから、神はお造りになった全てのものを御覧になったのでした。神様がご覧になった天地万物は、見よ、それは極めて良かった(創世記一・三一)、こうやって天地万物は完成(創世記二・一)しました。

でも、第六の日で終わりませんでした。第七の日がまだあります。神様はそれで第七の日に、創造の仕事を離れ、安息なさった(創世記二・三)のでした。お疲れになって休んだということではありません。この時の神様のお気持ちはこうです。君たちを愛して創造したよ。どうだい、極めて良いだろう、と呼びかけるお気持ちです。

そこで、今日、皆さんに考えて欲しいことがあります。神がお造りになった天地万物は極めて良かったのですが、どう良かったのでしょうか、ということです。

そこで、今日の聖句カード(福音主義教会連合二〇二二年度版No.6)を見てみましょう。

美しい光景です。大空と海、これは第二の日にお造りになりました。陸があって緑色の草や木々があります。第三の日です。それから絵には描いていませんが明るい空ですから太陽が輝いているでしょう、夜なら月や星です。第四の日。次は魚や鳥、第五の日。それから第六の日に動物たち、そして他の全てが整ったところで人間たちです。こうやって天地万物が出来上がりました。これらは極めて良かった。どう良かったのでしょうか。ここでの大空の空気は澄んで深呼吸したらとっても気持ちが良いでしょうね。海もきれいでプラスチックやゴミはないでしょうね。その世界は、このように自然環境が素晴らしいのは確かでしょう。自然環境は極めて良かったに違いありません。

でも、それだけでしょうか……。聖句カードをもう一度よく見てみましょう。みんな、どちらを向いていますか。向こうの方です。空の方、天を見上げているようです。人間たちは手を携え、上に挙げています。 「あなたに向かって両手を広げ、乾いた大地のような私の魂をあなたに向けます」(詩編一四三・六)とありますから、この絵の人たちも両手を広げて神様に向かって、祈っているのかもしれないですね。しかも渇いた魂ではなくてみずみずしい気持ちで、魂を、そして体ごと神様に向けている。祈っているとも言えますし、神様をほめたたえています。

神様が、どうだい、極めて良いだろう、と呼びかけておられるのですから、神様に答えます。 「主よ、私たちの主よ。あなたの御名は、いかに力強く、全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます」(詩編八・二)。天地万物、一緒になって天におられる神様、造り主をほめたたえています。ですから、極めて良かったというのは、被造物みんな天地万物が、神様をほめたたえている、礼拝をささげている。それで極めて良かった、ということです。神様が愛して造って下さったのですから、みんな、「有り難う」とみずみずしい気持ちで礼拝をささげている。これがこの聖句カードの光景です。

もし、神様の御名をほめたたえない、礼拝をささげないとしたら、それを聖書は罪と言っている。何か悪いことをしたから罪、なのではありません。どうだい、と呼びかけておられるのに、それに応えず神様に向かって礼拝をささげようとしない、それでは自分が神様になってしまっています。それを罪と言います。自分が偉くなって他の人を見下したり、善い行いをして鼻高々になってしまったりするのは自分が神様になっている。また誰か偉い人の言いなりになってその人を神様にしてしまうのも罪。そうやって本当の神様をどこかへ追いやってしまうことを罪と言います。

神様を追いやっているそのような私たちの罪を十字架で背負い、罪の罰を全部、負って下さったのがイエス様です。一つの言い方として、この第六の日の最後にイエス様がこの十字架の御業をなさった、と言えるでしょう。ですから私たちはイエス・キリストを主なる神様として、日曜日=安息日に礼拝をささげます。主イエスはご自分のことをこう仰いました。 「だから、人の子は安息日の主でもある」(マルコ二・二八)。これが第七の日の出来事です。第七の日を祝福して下さり、私たちをこの祝福の中に招き入れて下さいました。

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