詩編一一九・七三~七七
ヤコブ 二・ 八~一三
自由をもたらす律法。二章一二節と既に一章二五節にもあった表現です。旧約聖書の十戒に代表される律法は、エジプトで奴隷であったイスラエルの人たちが嘆きと叫びの末、紅海の奇跡を経て救い出されて与えられたものです。救い出して下さった神をこそ愛し、神に救われた者として隣人を愛することを定めた掟です。「自由をもたらす律法」、改めて味わってみると、興味深い表現です。通常、律法とか規則とか言うと、自由を縛られるようなことを連想するからです。でもヤコブは敢えて、律法は自由をもたらすのだと言っています。どういうことなのか、本日の主題です。
ヤコブは、律法の課題に丁寧に触れています。律法を一つでも守れなかったら、律法の違反者になるという課題です。もしあなた方が、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。しかし、人を分け隔てするなら、あなた方は罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。律法全体を守ったとしても、一つの点で落ち度があるなら、全ての点について有罪となるからです。「姦淫するな」と言われた方は、「殺すな」とも言われました。そこで、たとえ姦淫はしなくても、人殺しをすれば、あなたは律法の違犯者になるのです(ヤコブ二・八~一一)。人は律法を全て落ち度なく守ることは出来ず、律法の違反者であることから免れることは出来ない。であるのに守れるのだと思い込んでしまうのが律法主義なのでしょう。そこでは、律法の決まりの通りに行わなければならないと、不自由な生活を強いられます。
律法主義についてはパウロも批判して、こう言います。この自由を得させるために、キリストは私たちを自由の身にして下さったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません(ガラテヤ五・一)。
律法主義の反対があります。無律法主義です。どうせ守れないのなら、初めから守らなくても良いと開き直ってしまう事です。律法の決まり事の束縛、私たちで言えば、学校や会社の規則、お役所のお決まり事から自由になって、融通を利かせて生活する在り方です。これについてパウロは批判して、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに(ガラテヤ五・一三b)と語ります。無律法主義では自由にやりたい放題になってしまい、自分中心の生き方になりかねない、と注意を促します。
自由は大事であるけれども、自由には二つあって、無律法主義が主張する束縛「からの自由」と、愛すること「への自由」。この二つをパウロは論点として忘れずに押さえています。
それで、自由のない厳格な律法主義でもなく、律法を無視する自由放任の無律法主義でもなく、律法をめぐる三つ目の在り方としてヤコブは「自由をもたらす律法」を語る訳です。私の手元に、十戒についての解説書がありますが、ある著者はこういう題名をつけています。『自由のみちしるべ』。この題名からも律法と自由は結びついていることが分かります。パウロは更にこう言って続けます。愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです(ガラテヤ五・一三c~一四)。隣人を愛することに自由を用いなさいと、律法と自由を積極的に関連させて語っています。
ヤコブは、人には落ち度があって、人が律法の違反者であることをまず理解しています。でも何故なお、自由の律法と言うのでしょうか。自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、また振る舞いなさい(ヤコブ二・一二)。話は飛ぶようでありますが、自然災害であれ、戦争であれ、感染症であれ、助けることが出来ないまま過ぎて行くしかない時があります。負い目を感じます。あるいはもっとああしてあげればよかったのにしないままだったと後悔することもあります。語るにしても振る舞うにしても、また語るべき事を語らず、振る舞うべき事を振る舞わなかったにしても、それが私たちの姿です。
先程の『自由のみちしるべ』の書物にこういう文章があります。「十戒の本来の意図を理解するために神学的にも実践的にも苦闘することだ」。本来の意図とは、エジプトの奴隷状況から解放されて自由にされたという自由のことです。十戒の律法に従って、自由にされた者として、神を愛し隣人を愛する。ここに生きる。しかし人は愛を全う出来ない弱さを抱える。そこで苦闘する。それが次に続く、人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます(ヤコブ二・一三)ということであって、苦闘の時点で既に裁かれているのではないでしょうか。出来るものなら自分だってキリスト者らしく、いや人間らしく語り、振る舞いたい。でも出来なかった、しなかった。そうやって苦闘することがそのまま裁きになっている。
神は罪に対しては絶対的に否、お裁きになります。もし神たるお方が、罪を犯してもいいんだよ、などと曖昧なことを仰ったら、本末転倒です。それは良くなかった、駄目だった、足りなかった。ちゃんとお裁きになります。それが自分の人生の苦闘として現れるし、また何よりもキリストの十字架に明らかになった訳です。
その時に不完全な私たちは、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ(ヤコブ一・二五)、あるべき方向を見失わないように導かれねばなりません。負い目や後悔を引きずり嘆き叫びながら、正にその所で、キリストの御前で苦闘して良い。
思えばキリストの裁きは、罪の故に神から離れようとしていた人間を、ご自身との交わりの中に保つための、罪に対する裁きです。この罪が裁かれて、人が神との関わりの中に、憐れみの中に回復し守られます。そこでキリストは私たちをご自分へと招いておられます。
ヤコブは終わりにこう高らかに記します。憐れみは裁きに打ち勝つのです! 守り切れず違反者になって、落ち込むのでもなく、開き直るのでもなく、そこで苦闘しながら憐れみを求めます。
詩編にもこうあります。ゆっくり読みます。御手が私を造り、固く立てて下さいました。あなたの戒めを理解させ、学ばせて下さい。あなたを畏れる人は私を見て喜びます。私が御言葉を待ち望んでいるからです。主よ、あなたの裁きが正しいことを、私は知っています。私を苦しめられたのは、あなたのまことの故です。あなたの慈しみをもって、私を力づけて下さい。あなたの僕への仰せの通りに。御憐れみが私に届き、命を得させて下さいますように。あなたの律法は私の楽しみです(一一九・七三~七七)。
ここには「自由」という言葉こそありませんが、律法を嫌々守るのではない、むしろ律法を楽しむ姿を描いています。様々な苦闘や困難の中で見えてくる自分の不完全さを嘆きつつ、そこでこそ、キリストが憐れみの届くように御顔を向けておられることに気付く。これは人間としての命を回復していく深い楽しみです。それは自分の不完全さに縛られない自由の経験であるに違いありません。
祈り
私たちにはキリスト者として、いや、人間としても完全な者はおりません。でも、欠け故に裁かれることを恐れるのではなく、むしろ不完全さを示されながら、憐れんで戴けることを望み、改めて歩み出したいと願います。自由の律法を見つめ、神を愛し、隣人を愛して、キリストの栄光を完全にでなくても少しでも現して歩ませて下さい。