日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2024年9月8日 説教:森田恭一郎牧師

「自らを摂理の中に気付く時」

詩編七一・一四~一九
ローマ八・二八~三〇

今日は「神の摂理」について思いを深めたいと思います。『A・D・ヘールに学ぶ』に中山昇はこう記しています(同三三頁)。待つことによって神様との対話が深められて行く。そして思いがけぬ出来事を通して、いよいよ神様の御心が確かに植え付けられていく。A・D・ヘールも対話し祈った。思いがけぬ出来事というのは、ヘールが宣教師として旅立つに先立って医学の学びを終えた頃、カンバーランド長老教会伝道同局の先生でしょうか、クリスマン博士が、日本への出発の準備をするように手紙を書き送ります。その際、博士はある信徒から一千ドルの小切手を預かっていた事を伝えます。それは、ヘールが外国の伝道地へ出向くために必要な費用のために用いて下さいという献金であった、という出来事です。そしてこう記します。A・D・ヘールもまた、クリスマンの手紙によって、日本伝道の使命をより明確に自分のものとしていただくことが出来た。神の摂理は先生を日本伝道へと押しやったのである。

 

神の摂理。神が予め見ておられて、主は備えて下さる(創世記二二・一四参照)という意味の言葉です。神様の秘められたご計画があって、それを知らされた時、人は神の摂理に気付く。そのご計画は、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです(エフェソ一・九参照)。  その御心によって備えられていたご計画とは、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられます(エフェソ一・一〇)というご計画です。神様の側には、前もって秘められた計画があって、A・D・ヘールを日本への宣教師として遣わすことにしておられた。そして、前もって備えておられたご計画を、時が満ちるに及んでお示しになり、ヘールはこれを神の摂理として受け止め、日本へと旅立つ訳です。

 

さて、話は変わりますが、昨日NHKのテレおビで、薬師寺東塔の大修理、建立の番組を観ました。千三百年前に建立されたその塔を、すごく痛んでいるので全部解体して立て直す取り組みプロジェクトの番組でした。これに取り組む職人のトップの人が、初めにこの建立に携わった工人の思いになって、取り組むようにと言われたそうです。工人と言っても、千三百年前の人たちです。今更聞く訳にはいかない。その後トップの人を引き継いだ次の人は、解体しながら、千三百年前の工人たちの思いを尋ね求めていきます。この工事に携わりながら、自分の妻ががんに罹る。治る見込みはない所まで進んでいた。その時に気付いた。自分の力ではどうしようもない中で、すがるしかない思いで、あの時の人たちも建立したのだ。薬師寺は、病気治癒、平癒を祈る寺です。千三百年間、人々のこの祈りがささげられてきた寺です。    この工事に携わった人たち、出来る限り、当初の部材を用いつつ修復していく。解体しながら千三百年前の工人の思いを尋ね、修復しながらその工人の思いを次の千年に繋げていく。ある職人が語りました。我々は次の千年もつ仕事、次の千年に繋がる仕事をするのだ。我々はその通過点にいるだけだ。そうやってプロジェクトをやり遂げました。この番組を見ながら、教会もまた同じ所があるように思いました。ただ原点は異なります。

 

教会の原点は神様の御心にあります。ここでこれからお話しすることは建物の話ではないので、建物を建てた工人の思いではなく、キリストをお遣わしなった神様の思い、御心です。使徒たちは、キリストと出会って気付いた神様の御心、ご計画を、語り伝えた。それが文章となって新約聖書になっています。それに先立つキリストを待ち望む旧約の信仰者の人々もまた、旧約の歴史を通して知った御心を語り継いで行きます。

私の口は恵みの御業を、御救いを絶えることなく語り、なお決して語り尽くすことが出来ません(詩編七一・一五)。若いときから同時代の人々に語り伝え(同一七節)、老いて白髪になっても来るべき世代に語り伝えていく(同一八節参照)。建物の修復ではありませんが、神様の思い御心、ご計画を、自分の生きている今、新しく語り直しながら、次へと伝えていく。それが旧約の民でした。彼らもキリストに繋げていく通過点です。そしてしっかり通過させてこそ次に繋がっていく。

 

使徒パウロも語りました。無くてはならない通過点として、キリストにおいて明らかになった神様のご計画を語りました。神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私たちは知っています(ローマ八・二八~)。       万事が益となる。誰の何のために益となるのでしょうか。私個人にとって益になるということでしょうか。それもあるでしょう。神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようと予め定められました、とありますから。パウロもヘールも、そして私たちも、神様が前もって備えていて下さった一人ひとりです。そのような私たちを御子の姿に似たものにしようと、万事が益となるということです。

 

その最終目標は、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。みんなが「キリストに栄光あれ」と賛美をささげるようになるためです。次の千年もつ仕事、次の千年に繋がる仕事、我々はその通過点にいるだけです。でもそれは神様の壮大な救いのご計画の中にある通過点です。    先のエフェソ書の言い方をするなら、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられる。そこに向けて万事が益となる訳です。世界の歴史は争いもあり分断の歴史のように思えます。でも、この歴史の中にキリストが顕れた。一人の人がただ十字架で死んだのではない。罪の贖いの神の業です。使徒たちは旧約に証しされたキリストだと御言葉を聞くことによって気づかされた。頭であるキリストです。その体なる教会は、恵みを受けて恵みを語り続けます。そして聖餐の恵を味わい、恵みを次へと繋げていく営みの中に、用いられていく。それが教会の歴史です。      私たちも、キリストから使徒たちが受けた恵を語り伝える思いを、み言葉に尋ね求め、受けとめていきます。そうやって今の私たち一人ひとりの営みが、実は神様の、前もって備えられた摂理の中を歩むようになる。このことを自覚したら、神の壮大な救済の歴史の一コマ、通過点であると、私たちの自分の人生の今日の営みを受けとめることになるに違いありません。

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