詩篇34篇5~12節
ペテロの手紙一3章8~12節
先日の教会修養会の折、小林牧師をお迎えして説教とご講演を伺いました。そこで印象深く心に残った言葉の一つは、状況の変化と関係の変化の区別でした。病が治るように、死んでも天国に行けますようになど、色々な私たち自身の願い事を抱えながら教会に来て、その成就を求める。それは状況の変化。でも、本当は神様に出会い、神様の臨在に触れ、神を崇める礼拝者になる。その神様との関係の変化、礼拝しない自分から礼拝をささげる自分へと変わる、礼拝者に変わる、関係の変化でなければならないとお話し下さいました。
ペトロ書の三章九節に、祝福を受け継ぐためにあなた方は召されたとあります。祝福を受け継ぐ。先週の言葉では一五節の心の中でキリストを主とあがめなさい。キリストを主と崇める、主の御名を礼拝するとき、私たちは祝福を受け継いでいる。
一〇節から一二節の言葉は、詩編三四篇一二―一六節の引用です。何か悪いことをされると、ついつい悪を以て悪に報いてしまう私たち、侮辱されるとついつい侮辱を以て侮辱に報いてしまいがちな私たち。そうではなくて却って祝福を祈りなさい。命を愛し、幸せな日々を愛したい人々は、舌を制して悪を言わず唇を閉じて偽りを語らず、悪から遠ざかり善を行い、平和を願ってこれを追い求めよ。この詩編のこの個所だけを読むと、善いことをしなさい、悪いことをしてはいけないと倫理の勧めであるように読めますが、ペトロ書がここにこの詩編を置いたとき、祝福を受け継ぐことの具体的な在り方としてこの詩編の言葉を語っているということが分かります。
祝福を受け継ぐとは? それは、二千年前のキリストにおいて起こったことが、今、礼拝において起こる、それを受け止めることです。もちろんここに聖霊が働かなければなりません。二千年前、キリストにおいてと言っても、私たちは今、キリストのお姿を直接見ることは出来ません。ペトロ書が一章八節であなた方はキリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じておりと語る通りです。でも言葉では言い尽くせない素晴らしい喜びに満ち溢れています、これが祝福を受けている姿。では礼拝においてキリストに出会うとは?
今日、聖餐式を執り行いますが、私たちは何故洗礼を受け、聖餐に与るのでしょうか。今日はこれが主題です。でも、聖書を読み説教を聴いて信仰が養われれば十分だ、と考える無教会の考え方、また信仰者として倫理的に生きることが大切だと考える救世軍の考えもあります。彼らには洗礼と聖餐の聖礼典がありません。でも二千年間、教会は聖礼典を保持してきました。それは一つには、そうするようにとキリストが命令されたからです。
また逆に、聖餐式(カトリック教会のミサ)は絶対に大事なのだとカトリック教会の人たちは言います。そこでキリストの臨在に与るからです。しかし歴史の中でカトリック教会はミサを毎週してきたけれども、会衆は段々、その意味が解らなくなった。だから宗教改革者たちは聖礼典の意味する事柄を明らかにするのが説教の根本的な任務だと、聖書を解き明かすことを大事にしました。
解き明かす言葉は、そもそも聖書が語っている訳で、例えばパウロも、語ります。私たちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血に与ることではないか。私たちが裂くパンは、キリストの体に与ることではないか(Ⅰコリント一〇・一六)。また、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊を飲ませてもらった(同一二・一三)。
洗礼についても、キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた私たちが皆、またその死に与るために洗礼を受けた。私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ・・・(ローマ六・三―四)。洗礼は川で受けました。水の中に頭まで沈められます。そして水から上がります。それらのことが象徴するのは、その時まで生きてきたキリストを信じない古い自分が死に、キリストを信じる新しい自分に甦らされたということです。そしてキリストの体(=教会)に組み入れられ新しい命に生きます。ここから分かることは、私たちの生死に関わることが、洗礼式において起こっている。更に聖書が明らかにしている内容から、私たちには受洗の前後で明確な相異、区別があることが分かります。そして区別ある者として聖餐に与る者となります。
今日は、教会行事暦の世界聖餐日です。東西教会両宗派や、カトリックとプロテスタントの宗派、そしてプロテスタントの諸教派が今日に至るまで一つになれない理由の一つは、聖餐におけるキリストの臨在をどう理解するかが一致しないからです。一致の願いと祈りを込めて世界聖餐日が制定されたのだと思います(臨在の仕方についての理解の仕方については、今日は省きます)。
聖礼典の意味を解き明かす説教が大事だと先程言いました。でも意味を解き明かす説教を聴き信仰だけで十分だとは言いません。宗派・教派の違いはともかく、教会は洗礼を受け聖餐に与り、パンを食し杯から飲みなさいと申します。何故か。
話は飛ぶようですが、マルコ福音書五章二五節以下、ここに十二年間も出血の止まらない女性が登場します。群衆の中に紛れ込み、後ろから主イエスの服に触れた。すると治ったという記事です。彼女は主イエスの服に触れます。「この方の服にでも触れれば癒して戴ける」と思ったからです。
触れてみると、すぐ出血が全く止まって病気が癒されたことを体に感じた。願った通りです。それで彼女はそのまま、気付かれないように群衆に紛れ込んだまま下がっていけば良かった。でもそうなりませんでした。イエスが、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り「私の服に触れたのは誰か」と触れた者を見つけようと、辺りを見回されたからです。そして、彼女の視線は主イエスの眼差しとあってしまった。
その時、彼女は解った。解かったことの全てをありのまま話した。彼女が頭で思うのとは全く別の出来事が起こったことを話した。その出来事とは、主イエスご自身の内から力が出て行った。それは主イエスに触れる人、押し迫る群衆全てに起こる訳ではない。主イエスはこの時、彼女だけに反応した。それは、ここに父なる神様が主イエスに与えたもう、この時救われるようにと選ばれた人がここにいる。父なる神が、この人を救えと私に命じておられるということです。これを信じた主イエスは、その人を何としてでも探し出さねばならない。それが主イエスの眼差しに溢れている。 彼女はこの眼差しに触れ捉えられた。触れれば癒してもらえる状況の変化を求めた彼女が、主イエスの眼差しに触れて、こんな自分を神様が救いへと招いておられる。招きの経験をして、震えながら進み出て平伏した。平伏し礼拝する関係の変化へと導かれた。主イエスを崇める礼拝者になった。自分の身に起こったこの出来事、これら全てを主イエスに語った。これを受けて主イエスは、あなたの信仰があなたを救ったと宣言なさった。
彼女が服に触れたのは、まず病を癒してもらいたい思いがあったからです。でも病が癒されてもそのまま後ろへ引き下がらなかったのは、神様が臨在したもうことを求めていたからです。自分が病になったのは、自分が汚れて、神様に見捨てられたからではない。病を抱えたままでも尚、神が共におられて私を救って下さることを求めていた。 救って下さるというのは病が癒されるという状況の変化と同じではない。病の中にあっても救い主の御前に平伏す関係の変化です。触れることを通して神の臨在に与りたい。その彼女が、思いを超えキリストの眼差しに触れ、神の臨在に与った。
このような経験を私たちはどこで経験していくのか。礼拝でです。聖書の解き明かしを聴く。けれども聴くだけでは触れることがない。だから一方で私たちは、聖餐においてパンに触れ、杯のワインに触れる。パンを食し杯から飲んで、体の中に触れる。もちろん、触れるのはパンそのものでありワインそのものでしかない。それはキリストではない。カトリック教会の人たちは、パンの実体はキリストの体だから、食べて文字通り触れると考えるかもしれない。私たちは、パンはパンで、キリストは天におられる。でも聖霊の導きの下で、しるしとしてのパンを信仰を以て食したとき、ここにキリストが臨在し給う。そういう出来事として、受け止めることが出来ると信じる訳です。信仰が無ければ食しても意味のないことです。
また他方、信仰があれば、聖餐式が無くてもキリストに出会えるようだが、それではキリストの臨在が観念化し頭だけのことになる。キリストは、本当に十字架にかかって体が裂かれ、血が流された。そのキリストが歴史の中に実際にいて下さらなければ、私たちの信仰は空しくなります。二千年前に十字架にかかられたキリストであり、今はお体は天に在って、聖霊の導きの下にここにおられるキリストです。裂かれるパンと流されるワインの聖餐において信仰を以て、今、キリストに触れます。キリストは臨在し給うと信じます。