詩編 三一・六
エフェソ四・一七~二四
先週のペンテコステ=聖霊降臨日に続けて、今日も聖霊を巡る記事から学びます。『A・D・ヘールに学ぶ』の書物から、以前にも引用したかと思いますが、ヘール宣教師たちが日本語が上手ではかったことを取り上げながらの記事です。弟のJ・B・ヘールの文章です。 「他人に分からせる能力が全く欠けているということが、我々を却って、聖霊に全面的に依り頼むことへと追いやった」(四〇頁)。 この記事は、聖霊に依り頼むことについて、信仰者なのだから、聖霊に依り頼むべきだ、という言い方はしていない。もちろん信仰者として聖霊に依り頼むのは当然のことですが、この記事はむしろ、聖霊に依り頼むことへと追いやった、と記しています。河内長野教会でも無牧になると、みんな心ひとつにして真剣に祈った、と無牧を経験した方々が語っておられますが、聖霊の導きを求めて祈るというのは、実際のところ私たちも、追いやられてやっと真剣に祈るようになるということかもしれません。信仰深い宣教師の場合でさえ、日本語が上手くならないことが彼らを「聖霊に全面的に依り頼むことに追いやった」訳です。
その結果起こった出来事は続く文章で以下の通りです。「やがて、生徒の心が真理を受け入れ始めたとき、その目や顔が輝くのを見ることは、教師にとって、この世で与えられる最大の喜びの一つである」。信仰教育における聖霊の導きを喜びと共に記しています。続けて「特に嬉しい事は、長い間かかって、人格的な愛にいまし、永遠にいます父なる神についての真理(中略)を生徒が掴んだときである。この真理が人の心を捕らえたとき、その人の全存在が如何に変化するかを見ることは、何者にも比べようのない喜びである」。
真理を掴んで生徒が変化する。生徒が変化するのは、教えを受けた生徒の業というより、また教えた教師の業というより、聖霊の御業です。聖霊の御業は、永遠にいます父なる神についての真理を生徒が掴んだ出来事を引き起こします。ただここで心を留めたい事があります。「~についての真理」とありますがこれを注意したい。今日のエフェソ書に 「キリストをこのように学んだ」(エフェソ四・二〇)とありますが、日本語の座りから考えると「キリストについてこのように学んだ」となりそうな所ですが、聖書の文章の通り良いのです。ところがもう一つ、「キリストについて聞き」(エフェソ四・二一)とありますが、原文は「キリストを聞き」です。日本語としては何か座りが悪いのですが、両方とも「キリストを学ぶ、キリストを聞く」です。キリストについて、は、キリストについての説明になります。ここでは単なる知識としての説明を聞く以上のことを語っています。この出来事は聖霊の導きの中で起こります。
「キリストを聞く」ということをエフェソ書は言い換えて続けます。キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるように学んだはずです。後ろから言い直すと、真理を学ぶのは真理について学ぶのをはるかに超えて、イエスの内にあるように真理を学ぶ、キリストに結ばれてキリストにあって教えられて真理を学ぶ、キリストを聞き真理を学ぶ。
生徒の目や顔が輝くというのは、父なる神について、真理について学ぶことからだけでは起こらない。先ほどのJ・B・ヘールの文章、実はあるお箇所を飛ばして読みました。永遠にいます父なる神についての真理を、と記した後、書き加えています。書き直しています。そして私がその人格的な神と繋がっているという真理を、と。父なる神についての知識の説明に留まらない。教える者がその人格的神と繋がっているという真理を、生徒が掴み、表情が変わる。両方とも聖霊の導きです。語る教師が神と繋がって生きている。生徒がその教師の姿に気付いて表情が変わる。両方とも聖霊の御業です。真理は、私たちが聖霊に依り頼み、導きが起こる時、真理の出来事になります。
詩編の御言葉、まことの神、主よ(詩編三一・六)。これは、真理の神、主よ、と書き直しても一向に構わない。その主なる神様に詩編記者は繋がっていく。絡みついていきます。御手に私の霊を委ねます。これは死ぬときだけのセリフではありません。この詩編記者のように生きている時、そのどのような場面でも言って構わない言葉です。そして私を贖って下さい。詩編記者はこのように聖霊に依り頼んで祈りました。 「まことの=真理の神、主よ、私の霊を委ねます。私を贖って、私を敵のものではなく、あなたのものとして下さい」。この詩編記者の訴えを受けとめるようにして、主イエスが十字架で私たちを、その罪を御自分のものとして贖って下さった。それを、ただ向こうの方にある救いの知識として語るのではなく、自分が贖ってもらって神のものとして生かされている、と自分との繋がりにおいて祈り、語る。キリストと自分が繋がっている。エフェソ書の言葉でいると、神にかたどって作られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しい清い生活を送る(エフェソ四・二四)。正しい清い生活というと、何だか道徳的に礼儀を守って生きているというイメージを持ちがちですが、ポイントは、キリストに繋がり贖われて生きている姿、それが新しい人を身に着け生きている姿です。
J・B・ヘールの言葉をもう一度。そして私がその人格的な神と繋がっているという真理を生徒が掴んだとき。教会学校で生徒に語るのも、間違ったことを語ってしまうのはもちろん良くありませんが、聖書の知識を正しく知っていることを説教するだけでは、生徒は変わらない。「また言ってる」で終わってしまう。語る者が、その真理に繋がって生きている姿が見えてくれば良いのです。「私は自分の霊を委ねながら生きています。主イエスに贖ってもらって主イエスのものとなって生きています」と。自分が、聖書の言葉に包まれて、信仰者としてキリストに繋がって生きている姿が、子どもたちに見得てくればそれでいいのでしょう。 皆さん、教会学校で説教してみませんか。今日も教会学校教師でない方が語って下さいました。信仰者として聖霊に依り頼んで生きているそのままで良いのですから、立派な自分を語るのではない、その日の聖書の言葉に包まれ聖霊に依り頼んで、主イエスに人格的に繋がって生かされている。その恵みの中で子どもたちに語りかけてみませんか。子どもたちはきっと表情が変わるでしょうし、説教を語るとなると、語る者も聖霊に依り頼むことに追いやられて、表情が豊かに変わります。