イザヤ 七・一四
ガラテヤ四・一九
今日の使徒信条は「主は聖霊によりて宿り、処女マリアより生まれ」の箇所です。使徒信条は、聖霊によりて宿り処女より生まれたという点で、主イエスの神性を語り、マリアより生まれたという点でキリストの人性を表現しています。今日は、この信仰告白が私たちの内にキリストが形造られることに繋がるという視点でお話しします。
この箇所は当然のことながら、近代人にとって本当かなと疑義を挟みたくなる表現です。男女の関係なしに子どもが生まれてくるなんてあり得ないではないか、と思う訳です。 いや、マリア本人自身が戸惑いました。 「どうして、そのようなことがあり得ましょうか。私は男の人を知りませんのに」(ルカ一・三四)。これに対する天使の返答は次のようなものでした。 「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類エリザベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六ヶ月になっている。神に出来ない事は何一つない」。 天使は神の全能と、生まれてくる子が神の子であることを告げます。それを聞いてマリアは「私は主の卑女です。お言葉通り、この身になりますように」と応えます。マリアは生まれてくる子が神の御子であられることを信じて、自分の処女降誕を受け入れた訳です。 今日はパウロの言葉「キリストがあなた方の内に形造られるまで、私はもう一度あなた方を産もうと苦しんでいます」(ガラテヤ四・一九)を読みましたが、マリアの場合は、文字通り、自分のお腹の中にキリストが形造られていくことになります。マリアはお腹の赤ちゃんが大きくなってくるのを日々感じながら、その都度、この子は神の御子なんだという天使のお告げを繰り返し口ずさんだに違いない。 パウロは「あなた方を産もうと苦しんでいる」と語りましたが、マリアもキリストが形造られるまで、自分の信仰を産もうと苦しんだのではないか。例えば、夫ヨセフに天使のこの御告げを報告してもヨセフはすぐには信じてくれない。マリアにすれば「いや私だって信じられませんよ。でも男の人を知らないままにお腹の赤ちゃんが大きくなってきました。神の御子だと天使の御告げを信じるしかないじゃないですか」。泣きそうな気持ちでヨセフに訴えたのではないか。それはマリアが御子を信じる分の信仰を産み出す苦しみの一場面です。 そして恐らくその後、ヨセフも夢で天使の御告げを受けて、マリアから生まれてくる子は聖霊によって宿った神の御子だと信じる信仰を産み出す苦しみを共に担う者となっていく。 私たちも「処女マリアより生まれ」と告白する度に「聖霊がマリアに降り、いと高き方の力がマリアを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子」なのだと心の内に口ずさんで、主イエスが神の御子である信仰を堅くしたい。この信仰から処女降誕も受け入れていくことになります。
パウロはガラテヤ教会の信徒たちのことで途方に暮れたのでした(ガラテヤ四・二〇)。彼らは律法を守らなければキリスト者と言えないと思っている。律法を守らなければキリストを信じても救われないと思っている。それなら、パウロにしてみれば、逆にキリストを信じたことにならない。せっかく律法を守るという自分の業から自由にされて、キリストの恵みよってのみ救われる信仰の自由の中に解放されたのに、目の前にイエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示された(ガラテヤ三・一)キリストのお姿、その福音が曖昧になってしまった。それでキリストを信じるあなた方を産もうと苦しんでいる、と訴えた。キリストがあなた方の内に形造られるまで! 先日、教職信徒研修会で、軽込昇先生がご講演なさいました。「信仰の骨格をつくろう。信じ続けるために」。その中で、キリストと結びついた信仰をお語りになりました。例えば「天地の造り主」と言ったらどこの聖書を思い起こしますか。当然、創世記の冒頭の聖書個所かと思いきや、それは違う。それだけではキリストと結びついていない。それならどの聖書かと言うと、万物は御子において造られた。万物は御子によって、御子のために造られた(コロサイ一・一六~)。 あるいは、天地創造の前に、神は私たちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました(エフェソ一・四)。この箇所を思い起こすべきだと、講師の先生はキリストと結びつけて考える信仰の在り方を示されました。 このエフェソ書の聖句をそのまま用いて考えると、皆さんは、神様が天地創造の前から私たちを愛し、キリストの十字架において聖なる者、汚れのない者にしようとなさって、その上で私たちが生まれてきたのだ、といつも信じて生きていますか。それを信じられない、こんな私なんてと思っておられるなら、パウロが途方に暮れたガラテヤの信徒と大して変わりはないのでは? もう一度、キリストが私たちの内に形造られねばなりません。 教会もまた同じです。キリストが形造られる必要があります。主イエス・キリストを信じる信仰、キリストの体なる教会を信じる信仰です。 先日の教会学校教師養成講座にて、本城仰太牧師が「教会につながる。私も子どもたちも」と題して講演下さいました。キリストが私たちを教会につながる者として下さることを信じよう、という講演でした。高校生になって主日礼拝に出席するようになったが牧師の説教はさっぱり分からない。でも例えば、帰りの車の中で両親がその日の説教について真面目にあれやこれやと話題にしている姿、大人たちが礼拝を大切にして礼拝につながっている姿を見て、自分も教会に繋いでもらった、そういうご講演でした。 教会学校教案誌の二月号に丁度、本城先生が巻頭言を執筆下さっていますが、その中で、日本キリスト改革派教会から各々入会されてきた二家族が、どちらも子どもと一緒に主日礼拝に出席している。ごく当たり前にです。このことを改革派の牧師に尋ねると、子どもたちは「契約の子」(私はあなた方の神となり、あなた方は私の民となる契約)として教会規定に定義しているとのこと。例えば「信者の子は契約により教会の子供である。これらの子は、洗礼を受けた後、各個教会の御陪餐会員となる。しかし、洗礼の有無にかかわらず契約の祝福として、教会の管理、訓育、配慮の下に置かれる」。親御さんが信者でなくても、親も子も契約の祝福が及ぶのですね。それを教会が信じなければなりません。
あるいは「牧師と小会は、公的礼拝に、子供たちも家族とともに出席するように勧め、子供も礼拝できるプログラムを検討する。終生、キリストの臨在を喜びとして、礼拝に出席するように教育する」と定められている。 改革派教会のことをこう紹介なさって本城牧師はこう記されました。「教団ではここまでの規定をすることは出来ないでしょう。しかし各個教会では、明文化するかどうかは別にして、子どもたちをどう位置づけていくか、教会学校をどのように教会の業として位置づけていくか、今の時代に特に問われているように思います」。
本城牧師の問いかけの事柄も、キリストが私たちの内に形造られるための産みの苦しみの一つです。私たちは、キリストの臨在を喜びとして礼拝に出席しているだろうか。キリストの臨在を喜びとしていないなら、パウロは私たちに対しても途方に暮れることでしょう。また子どもたちを契約の子として信じているだろうか。これもキリストを形造るための、教会が教会であるための大切な信仰の視点です。
話を戻します。「主は聖霊によりて宿り、処女より生まれ」の信仰は神の御子がマリアに宿った出来事、神様の業が確かに歴史の中に現れたことを信じることですが、この信仰はまた、様々な場面で、私たちの内にキリストが形造られることを真剣に尋ね求める信仰の姿勢に繋がると言えるでしょう。