レビ記19章1~2節
ペテロの手紙一1章13~21節
このペトロの手紙は、レビ記の言葉をわざわざ引用までして「あなた方は聖なる者となれ。私は聖なる者だからである」と語ります。私たちのような者が聖なる者になれるのか、聖なる者になるとはどういうことか、これが今日の主題です。 以前、私たちはどこから来てどこへ行くのかについて述べました。神が天地創造の前に予め立てられた御計画の中に既に私たちは愛の内に覚えられ、そこから来て、地上に生を受けました。そして私たちは、生き生きとした希望に向け、天に蓄えられている朽ちず汚れずしぼまない財産に向け、そして終わりの時に現わされるように準備されている救いに向けて、方向づけられています。親しいものを失いました時、ただ地上の人生を終えたのではなく、救いに向けていくのだと希望を持つことが出来る、遺された者がそう信じることが出来る、実に幸いなことと思います。
今日の聖句も、私たちの向かう方向を語ります。一三節、イエス・キリストが現れる時に与えられる恵みを、とあります。そしてそれをひたすら待ち望みなさい。どのように待ち望むのかについてだから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、そういう今の生き方・姿勢を以て待ち望む。ただ漠然と待ち望むのではなく一四節、無知であった頃の欲望に引きずられることなく、従順な子となりと言い、更に一五節で召し出して下さった聖なる方に倣って、あなた方自身も生活の全ての面で聖なる者となりなさい。天地創造の前の神の御計画と終末の救いの完成の中間にある地上の人生、仮住まいをする間、聖なる方に倣って、聖なる者となりなさいと勧めています。
聖なる者になるとは、欲望に引きずられることなく、従順な子となることと読める訳ですが、欲望というと何か、品行方正であるような道徳的な行いをする、あるいは、律法を守ることをイメージするかもしれません。だとすると、自分が自分で立派になって聖なる者になることなのだろうか。聖なる方に倣ってとは自分で真似をしてということだろうか…。そうではない。そもそも、キリスト教徒も含め、人間は地上にあっては不完全です。自分が完全になれると思う方が傲慢です。
マルコ一〇章一七節以下のあの金持ちの男、富める青年の話を思い起こしてみると、彼は、律法については実に、子どもの時から皆、守ってきた人です。でも聖なる者になってはいない、欠けているものを感じていた。だから「永遠の命を受け継ぐには何をしたらよいでしょうか」と主イエスに問いかけた。でも結局は主イエスから立ち去った。恵みによって救われるということが分からなかったからです。悲しみながら立ち去った彼は自分を見つめ、出来ない自分を責めたに違いありません。出来ない自分を責める生き方は、真面目で誠実ですが、ファリサイ派の人たちと同じになる一歩手前です。出来ない相手を責め始めたらファリサイ派です。彼は自分を見つめ、他の人を責めることをしない分、まだマシですが、主イエスを見つめず人間を見つめる点では同じです。
聖なる方に倣って聖なる者になるというのは、主イエスがこの自分を見つめ慈しんで下さる主イエスに気付き、主イエスに従ってついて行く、自分を見つめて下さる主イエスに倣って、自分も主イエスを見つめる。そして見つめながら主イエスに従い、ついて行きながら自分は不完全なまま、そのままに、従順にこの主イエスを指し示す者になるということです。でもそれは、出来ない所で開き直るのではない。出来ないでいる所から主イエスの方向を見、地上での歩み方を造っていく。
一七節以降、あなた方は、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、「父」と呼びかけているとあります。「神」と呼ぶというのとどう違うのでしょうか。神を神と呼べる内は、まだ自分に自信がある段階ではないか。あの放蕩息子の譬えを思い起こすと、ボロボロになったあの息子を迎えるのは父です。放蕩したことを責め立てることなくそのままにです。父と言う時、権威ある姿を思い起こすと同時に、慈しみ深い父を想い起します。信仰者が心から父と呼ぶ時、それは神よと呼べない時です。裁かれるしかない自分だからです。正義を掲げ罪人を裁く万軍の主なる神を呼べません。だから、「父よ」と呼んで良いと主イエスが言って下さることに意味があります。
もちろん神様ですから罪を公平に裁かれます。それを神様はキリストの十字架において裁かれました。一八節以下にあるようにあなた方が先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、傷や汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。自分の業によって救いを勝ち取るのでもなく、自分が罪を負ったまま裁かれることによってでもない。キリストが贖って下さった、この仕方で父なる神様は公平に裁かれます。
これによって明らかになることがある。神様が父なる神様であられ、主イエスが救い主であられ、聖霊が罪人でしかない私たちを聖なる者へと方向付けを以て導いておられるということ、それが明らかになります。裁くという用語は、裁いて地獄に落とすイメージがあるかもしれません。でもそうでなく、審かれて三位一体の神様が明らかになり神様を誉めたたるようになる。それで私たちは「父」と呼ぶことが出来きます。
だから一七節後半、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきなのです。聖なる者になれというのは、私たちの罪人の実際からすれば私たちが聖なる者でないから聖なる者にならねばならないことですが、むしろキリストにあっては既に聖なる者であるからそれに相応しく聖なる者であれということです。畏れるのは裁かれることをビクビクと怖がる恐れではありません。畏怖の畏れとは、父よと呼び聖なる者とされたことに相応しく畏れるということです。
一八節にあなた方が先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、とありました。この空しい生活という歴史を私たちは各々抱えています。私たちの先祖はキリスト教徒ではなかった。キリスト教徒の両親に生まれても、何代か遡ればキリスト教徒ではなかった。その生活から贖われた。自分が一代目であれ何代目であれ、その生活から贖われた者としてそれに相応しく聖なる者として生きます。相応しくとは?
前回も引用した沖縄戦の慰霊の日の式典で読まれた「生きる」。中学3年生の生徒のこの文章も歴史を負っている文章です。先祖伝来の生活というといかにも何百年に亘り培われた生活を連想するかもしれませんが、要するに過去の歴史、人間の罪の歴史です。「心から誓う。もう二度と過去を未来にしないこと」(他先週説教参照)。彼女にとっては、自分の生まれる前の日本の先祖たちが起こした戦争の歴史の延長線上に自分は生まれ育ち、その歴史を負いながら生きている。あの戦争を起こした日本の政府・軍部の政治、この先祖伝来のむなしい生活から贖われて、今を生き歴史を造っていきたい、この願いと誓い=決意がこの文章に込められている。この決意に聖書にも通じるある聖さを感じます。
ただ、人間の決意だけで生きるのなら歴史を平和へもたらす保証はありません。聖書がこの生活から贖われてと語るとき、神様が私たちの歴史を方向づけて下さるという確信がある。神様の方向付けに寄りすがって生きるとき初めて、相応しく聖なる者とされる。その方向を、人間の罪は歴史上繰り返し妨げて来ましたが、歴史の完成に向け神様は導いておられる。そう励まされます。
そのように信じることが出来るのは何故か、そもそも神様がおられると信じることが出来るのは何故か。それを二一節で語っています。あなた方は、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。私たちは漠然と神様を信じているのではない。この神をキリストによって信じています。歴史の中に来て下さったキリストによって、このキリストを根拠に、神がいらっしゃること、歴史を支配しておられることを、私たちは確信することが出来る。しかもそのキリストが十字架で人間の罪を贖ってくださったことを信じるが故に、神は愛であり、私たちは罪の贖われた存在であると信じることが出来る。あのキリストが復活してくださったから、私たちも地上の人生いずれ終わるにしても、甦らされるのだということを確信できる。私たちが信じるのは、私たちの単なる願い事を信じるのではなくて、キリストを根拠にして言えることを信じるのです。キリストによって神を信じているのです。
このキリストを信じるが故に、歴史もまた、先祖伝来の空しい生活から贖われて神の完全な支配の中へと向かっていると信じることが出来る。あの「生きる」という文章は人間の決意として書かれたものでありましょうけれども、人間の決意を超えて、神様の御心にして下さるのは、キリストご自身の故であります。私たちもそう信じて平和を願うことが出来る。そのようにして歩んで行けます。聖なる者とされて歩んで行くのです。